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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
150/166

(二十四)通告

「それは、あまりなお言葉です」


 かすれがちな声で、崔氏は否定しようとした。

 しかしその実、楊脩の言うことに一定の道理があるとも感じていた。


 長兄に対して肉親としての率直な愛情を抱いている曹植は、決して同意しないだろう。

 しかし、崔氏が叔父崔琰(さいえん)と族父崔林(さいりん)から、すなわち、魏国中枢の高級官僚たる親族たちから耳にする曹丕への評価は、どちらかといえば楊脩に近いものであった。


 厳密にいえば、補佐役という形で曹丕に直接仕えたことのある崔琰は、長子の曹丕こそが曹操を継いで次代の魏公になるべきだという原則を固持しぬくためにも、曹丕の肯定的な面に―――文武における卓越した技量や努力はもちろんのこと、信頼する近臣へ注ぐ親愛の深さなどに―――極力目を向けようと努めているようである。


 しかし人間を観察するまなざしが崔琰よりもだいぶ乾いている崔林のほうは、曹丕にまつわるさまざまな逸話を交えながら、楊脩がいま話した見解にかなり近いことを、里帰りしていたときの崔氏に告げたことがある。


 その意図はむろん、曹家での暮らしにおいて、夫の長兄と接点をもつときはいくら身を慎んでも慎みすぎることはない、と諭すことにあったのであろう。






 長い沈黙の後、「誠に恐れながら」と崔氏はつづけた。

 自分でも思っていないほど声がかすれていた。


「恐れながら楊主簿さまは、代々謹直に儒学を奉じて天下に威名鳴り響くお家のご出身ではあられませんか。

 なればこそ、丞相のお世継ぎとして嫡長子を―――五官将さまを推すのは、ご家風からいっても至当なわざかと存じます。

 なぜ、そうも五官将さまを否定なされるのです」


「臨菑侯こそが、丞相の継嗣として、そして次代の魏公としてふさわしいと思うからです」


「めったなことを」


 ひそやかだが芯のある楊脩の声が他の者にも聞こえたのではないかと危惧し、崔氏は思わず後方に控える侍女たちに目を()りかけたが、なんとか自制した。

 ここで自分が動転したら、彼女たちにも何かが伝わってしまうだろう。


「なにゆえ、子建さまなのですか。

 あのかたご自身は、そのような野心などお持ちでないはずです」


「貴女さまは、ご夫君が大志を遂げられることをお望みではないのですか。

 ただ詩文の世界に閉じこもるべきだと」


「子建さまが、政治の中枢に自ら参与し天下の民を塗炭(とたん)から救いたいという強い意欲をお持ちなのは、かねてより存じ上げております。

 おそらくは、その心願についてはあなたさまにもたびたび語っておられましょう」


「誠に、あれほど隔絶した才幹に恵まれ、なおかつ民草への憐憫深きおかたであれば当然のことです」


「ですが、あのかたは兄君とのご恩愛を断ち切り、曹家に不和の種を蒔いてまで()を通そうとは思っておられません。

 ご情愛深き天性なればこそ、そのような対立を自ら招くなど忍びがたきご試練のはず。


 そのうえ、天下に采配をふるう曹丞相の家中でひとたび内紛が生じれば、ことは一家の内にとどまらなくなるはずです。

 それは、天下の民びとにとっても厄災となりえます」


「貴女さまは」


 楊脩の声の調子がかすかに変わった。


「五官将がいずれ丞相の後を継がれた場合、あれほどの才に恵まれた弟君(おとうとぎみ)を、自らの右腕として温存なされるおつもりだと信じておられるのですか」


「それは、もちろん、―――なぜそんなふうに仰せになるのです」


「反駁しようとなさるのも無理はない。

 かのご兄弟の肝胆(かんたん)相照らす仲睦まじさは、傍目にもまことにうらやましくなるほどです。だが」


 楊脩は短く間を置いた。


「ご兄弟おふたりを比べたとき、より丞相に似ておられるのは五官将だというのもまた、まぎれもない事実です。


 天下の才器をあまねく愛でられ、逸材の登用のために日々お心を砕かれるという点で、五官将が父君に遜色を持たれぬのは誠に喜ばしきこと。

 だが、―――残念なことに、己が脅威となりうる者に対する掣肘の苛烈さ、ためらいのなさも実によく似ておられる。


 むしろ、周囲の者への愛憎が極端に過ぎるという点で、五官将は父君を凌駕なされるかもしれませぬ。

 父君のご歓心を買うためか、人前では表情やことばを抑えがちなかたであられるゆえ、傍目には分かりづらいとも申せましょうが。


 貴女さまは、五官将のものされた詩文をお読みになったことはおありでしょうか」


「はい」


「いかが思われました」


「―――とても繊細で、詩に詠みこむ対象の心のひだまでなぞるかのような、こまやかな共感に満ちていて―――」


「まさにその通り。あれらの作品は、五官将のご内心が実にたおやめのように繊細かつ純粋であられることを証し立てるものといえましょう。


 だがそれゆえにこそ、あのかたは、自らの意に染まぬものとの共存に耐えられない。

 常人であれば断交ぐらいでとどめるところを、五官将というおかたは、相手の存在自体を地上から抹消しなければお気が収まらぬのです。


 いわば、純粋なる精神の帰結とでも呼ぶべきでしょうか。

 いうまでもなく、純粋さと酷薄さとは紙一重のものです」


「―――恐れながら、ご兄弟おふたりのご恩愛はたしかなものだと、わたくしは信じております。

 我々のような他人が傍から邪推を働かせるべきことではございますまい。


 主簿さまが今仰せになりましたように、義兄上さまは―――五官将さまはかくも繊細なご気質であられるからこそ、磊落(らいらく)そのものの子建さまを深く可愛がっておられます。


 むろん、表情や会話のなかではっきりとそれを示されるかたではございませんが、―――わたくしは、そう信じております」


「愛なるものは、深ければ深いほど、憎しみに転じやすいものですよ」






 凪を迎えた湖面のような沈黙が下りた。

 何かを言いかけては口をつぐむ臨菑侯夫人を、楊脩は興味深げに眺めていた。


 隣の(へや)で金瓠がふたたび泣き出した声が、彼らのところまで小さく聞こえてきた。 

 楊脩は泣き声の聞こえる先を温和なまなざしで一瞥してから、崔氏に改めて向き直った。


「それほどに酷薄なかたが、継嗣の地位をめぐって弟君に脅かされたと感じたなら―――たとえ弟君ご自身にそのつもりがなくとも、その屈辱を忘れることは決してないでしょう。生涯を通じて」


「―――その可能性が、絶無とは申しません。ですが」


「だからこそ、弟君は、臨菑侯は選ばれなければなりません」


 崔氏は目を見開いた。

 楊脩は決して声を荒げたわけではないが、いまのことばは、温雅な中にも決然とした響きを帯びるものであった。


「選ばれるのが臨菑侯ならば、不幸になる者はおりません。

 あのかたならば、仮にお世継ぎに立てられたとしても、兄君に対する敬愛の態度が変わることはございますまい。


 しかし、その逆は別です。五官将は―――兄君のほうは、最終的にご自身が継嗣の地位を得たとしても、それまでにご自身に限りない焦燥と不安を味わわせた者を許すことは決してない。


 いまや丞相が臨菑侯をお世継ぎの候補として考えておられることが周囲の者にも伝わっている以上、それは避けがたいことです。

 それでも丞相がご存命のうちはよいが、―――その後はどうなるか、お分かりになりましょう」


 崔氏は自身の心臓の音が大きくなるのを感じた。

 ありえないこととは知りながら、帳の向こうまでその音が聞こえるかもしれないと思った。

 ようやくのことで、いままで口にしなかった問いを絞り出した。


「主簿さまは先ほど、子建さまを介して我が叔父とも親交を深められたいと、そうおっしゃいました」


「はい」


「我が叔父とお近づきになられた先に、何を望んでおられるのですか」


「助言です」


「助言」


「季珪どのからわたくしへの、ではなく、わたくしから季珪どのへの、です」


「我が叔父への……」


「季珪どのほどの御仁に、若輩者のわたくしが助言を、というのはあまりに不遜で僭越なこととは存じております。


 しかし当面は―――はっきり申せば曹丞相のご存命中(・・・・)は、季珪どのが示されるべき、正しい態度(・・・・・)というものがある。


 それをわきまえてこそ、季珪どのの立場も盤石となり、季珪どのが臨菑侯を支持することに大きな意義が生まれる。

 そのことを、お伝えすべきだと考えているのです」


「盤石、とは」


 問い返す崔氏の声に、これまでとは異なる緊張が混ざった。


「我が叔父の立場が盤石になるとは、どういう意味でしょう。

 主簿さまのご助言に耳を傾けなければ、叔父は危機に瀕することがありうると、そうお考えなのですか」


「そうならないことを願っております」


 楊脩の声は寄り添うようであり、衷心からの響きがあった。

 それだけに、崔氏は底知れぬ不安を感じた。


「誠に恐れながら、主簿さまがおっしゃるところの―――正しい態度、とは、いかなるものですか」


 楊脩は微笑みを深くし、閉じた唇に人差し指の先を当てた。

 崔琰本人にしか告げるつもりはないと、そう示しているのであろう。

 それは崔氏も予期していたので、さほど驚かなかった。

 だが彼女にもひとつだけ、いまここで言わねばならないことが分かった。


「わたくしは、主簿さまが我が叔父とご親交を深めてくださることに異存はございません。

 ですがご存じのように、叔父は時勢に左右されることなく、原則を堅持することで名望を高めてきた人間です」


「まさしく。鄴が陥落したのち、丞相と初めてまみえた場における季珪どのの進言は―――戦火に苦しみつづけた冀州の民を安寧ならしめるための決死の進言は、いまでも人々の間で畏敬をもって語られております」


「そこまでご存じならば、わたくしの贅言(ぜいげん)は不要でございましょう。

 いかなる原則も―――嫡長子相続の原則も、叔父が曲げることはありえません。


 ゆえに、義父上さまが子建さまを継嗣として指名なさるおつもりがあるとしても、叔父が賛同することはありえません。


 まことに恐れながら、主簿さまのお考えは徒労に終わるのではないかと、そのことを危惧いたします」


「叔父君を説得されるおつもりは?」


 協力を請われているのだ、ということは分かった。

 だが崔氏は、首を縦には振らなかった。


「五官将さまを―――義兄上さまを差し置いて、子建さまが義父上さまの後を継がれるのが正しいことだとは、わたくしも思いません。

 ゆえに、叔父を説得することは、わたくしにはできません」


 なるほど、と楊脩はうなずいた。

 苛立ちのかけらも感じられなかった。


「むろん、今ここで答えを出していただかなくとも結構です。

 まだ時間はある。よくお考えください。

 ですが、機を逃せば大切なものは簡単に失われるという恐れを、常にご念頭に置かれますように」


 崔氏は答えなかった。

 そのとき、戸口に人の気配がした。曹植が戻ってきたのだった。


 ちょうど頃合いを計っていたかのように、楊脩はそちらにこうべをめぐらし、優美な動きで揖礼を捧げた。

 その挙措も表情も、曹植がこの(へや)を退出したときとまったく同じ柔和さを湛えていた。


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