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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(二十三)韓宣の故事

韓宣(かんせん)どの、(あざな)でいえば景然(けいぜん)どののことはご存じですか」


「韓景然さま、ですか」


 たしかに、曹植の口から聞いたおぼえはあった。

 しかし、彼の友人のひとりというほど何度も話題に出てきたわけではないので、詳細がすぐには思い出せない。


「宮城の東掖門(えきもん)で、臨菑(りんし)侯と渡り合ったかたです」


「ああ」


 崔氏もようやく思い至った。韓宣とは、近年丞相府に召されて軍謀掾(ぐんぼうえん)に任じられたものの、さしあたり決まった職務がないまま(ぎょう)に滞在していたという人物である。


 いま現在は江東征伐の軍中に身を置いているかもしれないが、少なくとも数か月前、彼についての話を聞いた当時はそうであった。


 この韓宣という官人は、孫権征討軍が鄴を発つよりだいぶ前、曹植の父母兄弟がまだそろって鄴で暮らしている時期に、あるとき魏公の宮殿に出入りする用事があった。

 その際、宮城の東側の掖門(側面の小門)を通ろうとしたところ、たまたま曹植ら臨菑侯の一行が車で出入りするのに遭遇した。


 その日は雨が降ったばかりで、地面はだいぶぬかるんでいた。

 相手は列侯、しかも丞相の寵児であるから、韓宣は当然道を避けようとしたが、しかしそうするとどうしても足元が汚れることになり、彼は結局通路の脇のほうに退くのみで、顔を扇で覆ったのだという。


 ふだんの鷹揚な曹植であればそもそもいちいち気にかけずに通り過ぎたはずだが、その時は別の何かでよほど虫の居所が悪かったのか、見知らぬ者に無礼をはたらかれたと思い、御者に命じてわざわざ車を停めさせた。

 そして侍者を遣わし、通路の脇で顔を隠してじっと控える人物に官職を尋ねさせたのだという。






「すでに道の脇に下がって遠慮しておられるかたに、わざわざ詰問をなさるなんて。

 それに子建さまは、ほかのかたの礼儀を問題にされる前に、まず普段のご自身を顧みられるべきです」


 事件があった晩に曹植本人からここまで聞かされた当初、崔氏が率直に口にした感想はそれだったが、


「言ってくれるな。まあ聞くがいい」


と曹植は話をつづけた。






 自らの官職を問われた韓宣は、「丞相軍謀掾の任にあります」と正直に答えた。

 侍者からそれを聞いた曹植は、相手の官位がずいぶん低いことを知っていよいよ納得しがたく思ったのか、


「路上で列侯を避けもせず、かち合っていいと思っているのか」


と問責した。これに対し韓宣は、決して萎縮せず、


「春秋の義では、王の直臣はたとえ微賤の地位であっても、諸侯の上にあるとされています。

 丞相の属官でありながら諸侯にへりくだるという礼があるとは聞いておりません」


と反駁した。

 相手が平身低頭して陳謝するとばかり思っていた曹植は、やや面食らったものの、つづけて、


「そうだとしても、そなたは我が父に仕える身であろう。

 主君の子には礼を尽くすべきではないか」


と難じた。韓宣はこれにも顔色を変えず、


「礼においては、主君からみたとき臣下と我が子とは同様の存在です。

 そのうえ、年齢からいえばわたくしのほうがあなたさまより上です」


と堂々と答えたという。これを聞いた曹植は、


(この者を理詰めで屈服させるのは難しい)


と素直に感じ入り、韓宣を解放してその場を去った。

 そして、その後に曹丕と落ち合ったとき、


「先ほど韓宣という官人に行き会って、なかなか弁の立つ者です」


とその能を讃えたという。

 その晩に崔氏が夫から聞いたのはここまでのくだりであった。






 話の途中から彼女はすでに笑みをこらえがたくなり、袖で口元を覆い始めたので、曹植は「何が可笑(おか)しいのだ」と実に心外そうな顔をした。

 だって、と彼女は答えた。


「やりこめられたときの子建さまの表情を想像したら、可笑しくなってしまって」


「夫がやりこめられたと知って喜ぶ妻があるか」


と曹植は依然として心外そうな顔をしていたが、ふいに自分でも笑いだした。


 このかたのこういうところが好きだ、と崔氏は改めて思った。

 彼女自身に対して怒らなかったことが、ではなく、自分と対立していても筋の通ったことを言う者に対して、「腹は立つがあっぱれな奴だ」と素直に認めるところが、である。


 そして、この話を打ち明けた相手が妻である自分と長兄の曹丕だけだというのも、曹植を改めて見直す理由になった。

 つまり、曹植は韓宣を解放したその足で曹操の元へ行き、自分をやりこめた下級官僚の名をあげつらって罷免に追い込むことも十分可能だったわけだが、そんなことは思いもよらなかったわけである。


 侍者たちもいる前でやりこめられたことを「面目をつぶされた」とは感じず、むしろその弁論に感心したという大らかさは、まさに彼ならではの美点というべきであった。


 いましがたの楊脩のことばによる限り、曹植はこの話を彼にも伝えていたらしい。

 それ自体は驚くべきことではなく、むしろ、自身の失敗談に類するものを友人におもしろおかしく披露したということで、微笑ましいともいえた。


 実際、帳越しにみる楊脩の口元は、これまでにもましてにこやかに口角を上げているようにみえた。

 崔氏はそれを知って、そして同時に話の中の曹植の表情をふたたび想像して、同様に口元をほころばせざるをえなかった。


「貴女さまも、お聞き及びのようですな」


「ええ、思い出しました。そのときの子建さまのお顔を思うと……」


「さよう。平伏させるつもりがやりこめられたと、実に楽しいお話ですな。

 ですが、これがもし、臨菑侯ではなく兄君の―――五官中郎将の身に起こったことなら、どうだったでしょうか」


「義兄上さまの」


「五官将ならばまちがいなく、お許しになりますまい。

 その場では侍者たちに度量を見せるために韓景然どのを解放したとしても、後日機会があれば必ず、数倍の報復を―――よくても罷免に追い込むことでしょう.


 睚眦(ひとにらみ)ほどのわずかな仕打ちであっても、ご自身に煮え湯を飲ませた者、ご自身の面目をつぶした者―――そのように思わせた者に対しては生涯にわたり怨恨を抱きつづけ、その怨みを必ず晴らそうとする。


 五官将とはそういうおかたです」


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