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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(二十二)打診

 崔氏は伏せていた目を上げ、帳の向こうの楊脩をみた。

 彼は答えをせかすでもなく、ただ穏やかにこちらをみている。

 しばしのためらいののち、崔氏はようやく口をひらいた。


「子建さまと陳記室さまの間柄のことを、よくご存じなのですね」


「お二方のご交遊が以前より盛んになったのは、貴女さまのご助言によるものだと、臨菑(りんし)侯より伺っております」


「助言というほどのものでは」


孔璋(こうしょう)陳琳(ちんりん))どのは他に代えがたい文人です。

 侯が孔璋どのへのわだかまりを解かれ、より繁く交際するようになられたことは、我々のような侯の友人にとっても大変に喜ばしいことです。

 貴女さまは、余人にはできないことをなされました」


「それは―—―」


 わたくしはそのことを悔やんでおります(・・・・・・・・)、と崔氏は口に出しかけて、できなかった。

 楊脩の口調にはなんら誇張もなく、長年主家に仕えつづけた老僕のような誠実さがあり、聞く側の自尊心をくすぐらずにはいないものがあった。


「それゆえにこそです」


 楊脩の声音は変わらなかったが、帳の向こうから向けられる視線が一瞬、強さを帯びたように思えた。


「それほどの働きかけができる貴女さまにご尽力いただくことに、わたくしは望みを賭けているのです」


「主簿さまのお望みとは、一体」


「臨菑侯が季珪どのから―――貴女さまの叔父ぎみから堅固なご支持を得られるよう、そして臨菑侯から叔父君へのご親愛も一層盤石になるよう、おふたりの仲を近づけることです」


「近づける」


「多くの者が申していることですが、臨菑侯はご結婚以来ご素行が落ち着き、そのぶん政治や軍事へ振り向ける熱意を高めてこられました。

 このたび丞相の主だった御子がたのなかでただお一人、鄴の最高責任者として留守役を一任されましたのも、それありきのことと存じます。


 そのように侯を善導(・・)なされてきた貴女さまにとっては、決して難しいことだとは思われません。

 臨菑侯ご自身も、先ほどもおっしゃっていたように、季珪どのへの敬意は陰に陽に抱いておいでです。


 季珪どのは実質的に侯の岳父でいらっしゃるのですから、侯としては―――貴女さまに喜んでいただくためにも、季珪どのと親しく行き来することにやぶさかではないでしょう」


「それは―――」


「難しいのは、季珪どののほうです。あのかたは確かに、臨菑侯とは意識的に距離を置いておられる」


「そのとおりです」


「しかしながら、正妻たるあなたさまが臨菑侯のご素行をいっそう穏当な方向へ導かれ、かつそのように成長なされた夫君の美質を叔父君に盛んにお伝えすることに、何の非がありましょうか。


 その結果、季珪どののお気持ちが臨菑侯にひらかれること―――そして、臨菑侯を支持する態度を公になさること、それが肝要なのです」


 楊脩はそこまで言って、ふと小さな間を置いた。


「季珪どの個人が臨菑侯と昵懇(じっこん)になられること、それ自体は、曹丞相は必ずしも喜ばれない」


「―――そうなのですか」


 崔氏は思わず問い返した。思ってもみないことであった。

 楊脩はそれには返答せず、先をつづけた。


「ですが、季珪どのほどの硬骨の士が臨菑侯をお認めになり、堅い支持を表明なさることによって、天下の名士たちの多くが―――少なくとも冀州人士の大半が、その後につづきます。

 申し上げるまでもなく、冀州は魏国の最たる基盤です。

 それを目の当たりにすれば、丞相はお気持ちを大きく動かされることでしょう」


「動かすとは、つまり」


「むろん、臨菑侯をお世継ぎに立てられることです。

 そうして、臨菑侯は継嗣の地位に昇られて初めて、兄君からの敵意に脅かされることもなくなるのです」


 楊脩はことばを切った。

 短い間だったが、崔氏には重すぎるほどの沈黙に思われた。

 そして、ようやく口をひらいた。


「―――誠に恐れながら、それは、わたくしが介入することではございません」


 声がかすれそうにながらも、崔氏は意を決して答えた。


「不遜なことを申し上げるようですが、父にも等しい叔父の人品を、わたくしはよく存じ上げております。

 もし今後、万が一、丞相が原則を無視して子建さまを継嗣に立てることを本気で検討なさるようなことになれば、我が叔父はあくまで原則の堅持を丞相に懇請することは間違いございません。


 かりに子建さまが、季珪叔父をはじめ我が一族に親愛を深めてくださるとしたら、それは、願ってもおらぬ僥倖(ぎょうこう)ではございますが、―――されど、そのような私情で子建さまと叔父の間柄を親密にするように動くべきではないことはわきまえております。

 どうかお許しください」


 彼女の答えに楊脩は表情を改めるでもなく、帳の向こうから穏やかに見つめてくるだけだった。

 その穏やかさに崔氏の気持ちが静められてきたころ、彼は思いがけない名前を出した。


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