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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(二十一)後悔

 曹植は大体において劣等感とは無縁の男である。

 万人を刮目(かつもく)させる文才とそれを支える卓越した知性を除けば、群を抜いて優れた特性があるわけではないことは本人も自認しているが、幼いころから父母の愛情を惜しみなく受けて育った者の強みというべきか、自分という人間を基本的に肯定している。

 そしてそれゆえに、他者へ親愛を示すことに躊躇がない。


 崔氏のみるところでは、そんな彼がおそらく唯一恒常的に劣等感を抱いているかもしれないのが、宦官の家という出自である。

 むろん天下の最たる権力者の子息という立場上、ふだんはその素振りもみせないが、何かのはずみにそういった意識を感じさせることがこれまでもしばしばあった。


 そのことを想起しながらも、崔氏はあえて声の調子を落とさずにつづけた。


「婦人の身で僭越(せんえつ)を申し上げますが、―――人臣たる者、ひとたび主君より(めい)を受ければ全力を尽くすものではございませんか。

 記室(きしつ)陳琳(ちんりん))さまはご職務にたいそう忠実であられたのです。それは、丞相府に遷られてもお変わりないのでは」


 曹植は答えなかったが、否定はしなかった。


「それに、記室さまから子建さまへのおたよりを拝見した限りでは、子建さまがこれまで著してこられた詩や賦を可能な限り入手しておられ、心から賞賛なされておいでです」


「褒辞が過剰だ」


「かといって淡白な評価では、子建さまは受け入れがたいのではありませんか」


「まあ、そうだが」


「絶賛を受けるだけでは物足りないのなら、なおのこと、他者による代筆ではなく子建さまのご親筆で論を交わされ、互いへのご理解を深められるべきではございませんか。

 そのうえで初めて、記室さまへの評価を定められるべきではないかと」


 崔氏が曹植の交友態度についてここまで踏み込んだことを主張するのは珍しく、彼女自身にもその自覚はあった。

 これ以上申し上げれば逆鱗(げきりん)に触れるかもしれない、という不安が芽生えながらも、我が家の恩人のためにはここで退いてはいけない、という意志のほうが勝った。


 腹を決めると、崔氏は夫の指を―――先ほどから彼女の耳朶(じだ)を弄してきた指を軽く押さえた。

 そして、黙って彼の顔を見た。

 その視線を受け止めたまま、曹植もしばらく黙っていた。

 夜の底で二対の双眸(そうぼう)だけが光っている。


 今度は彼女が手を伸ばし、その指が動き出した。

 夫の耳朶に触れ、頬に触れ、唇に触れた。

 初めての仕草に、曹植はやや戸惑ったようであった。


 だが、白く細い指先が首から鎖骨へ、鎖骨から胸板へと降りてゆき、腹部あたりでとどまると、彼も何かを了解したかのようであった。

 いいのか、とつぶやき、その答えを待たずに、身を起こして妻の裸体を覆った。

 なお慎重にふるまおうとする意思はあったが、それでも衝動を抑えかねたように、先ほどよりは性急な求めかたであった。


 陳琳の檄文中で最も人口に膾炙(かいしゃ)し、最も強烈な個所―――「贅閹(ぜいえん)遺醜(贅肉で肥えた宦官の醜悪な子孫)」という一句を胸中で反復し、それを振り払おうとしたのかもしれなかった。






 その晩の一連のことをつづけざまに思い出し、崔氏は顔中が赤くなった。

 帳越しだから心配ないとはいえ、楊脩に何事か悟られたらどうしようかと思った。

 帳の向こうの楊脩は当然ながら何も言わず、崔氏の応答を静かに待っている。


 いくら常識の枠を踏み外しがちな曹植とはいえ、枕席(ちんせき)にて妻から懇願されたから陳琳への待遇を変えた、などと親友に話すことはないだろう。

 陳琳を大恩人だという妻のたっての願いもあって、と説明するぐらいにとどめたことは間違いない。


 しかし、ともあれ曹植は楊脩に、妻の働きかけを受けて自分は方針を改めたのだ、と伝えたことになる。

 おそらくは、そのためであろう。

 臨菑侯夫人は臨菑侯の去就(きょしゅう)に一定の影響を及ぼしうると、楊脩は見定めたのだ。


 




 あの晩の翌日、曹植は果たして、自ら筆を執って陳琳に返書を書いた。

 陳琳はこのとき曹操に従って孫権征伐の軍中にあったが、鄴や許都と出征軍との間で公文書や私信の往来は盛んにおこなわれており、届けることに支障はない。


「これでいいだろう」


と崔氏自身にも見せてくれたように、その内容は礼節をふまえ穏当なものであった。

 ただその後、やりとりを重ねるにつれて、陳琳は自作の辞賦を曹植に贈るようになった。

 曹植が閨で次々に広げてゆく簡牘を片付けるかたわら、崔氏もそれを目にすることになったが、自ら著述するほど文学の心得があるわけではない彼女の目からみても、陳琳はやはり檄文のような公文書でこそ唯一無二の本領を発揮できる型の文人であるようだった。


「向いていないな」


 陳琳の辞賦作品を、曹植はひとことで両断した。

 自分の父親ほどの世代の人間に対してその言い方はあんまりではないかと崔氏には思われたが、他者の文学的素質に関する曹植の直観はほぼ常に正鵠(せいこく)を射ている。


「まあいい。俺が的確な評語を毎回書き送れば、いずれは佳作をものすることもあるだろう」


 不遜きわまりないことを淡々と言いながら、曹植は陳琳からの書簡を脇にやり、無地の木簡をとりだして返信用の草稿を練り始めた。


 いずれにしても、曹植がこれからも陳琳と文章を交わして交遊をつづけるつもりであるらしいのは、崔氏の目からみて良いことだった。

 良いことだと思えたが、彼女の胸にはどこか、後ろ暗いものが残った。

 それは、曹植が結局のところ陳琳の文才を手放しで評価しなかったから、というわけではなかった。


(―――わたしは、不正な手段を使ってしまったのではないか)


という懸念であった。


 辞賦の才は措くとしても、陳琳はむろん当代屈指の文章家のひとりである。

 あの晩の崔氏は決して、箸にも棒にも掛からぬ凡庸な人間に特別目をかけてくれるよう、曹植に媚態を見せて頼んだわけではない。

 陳琳は彼女の一家にとって大恩人であるのと同時に、天下の英才が集う丞相府においてさえ抜きんでた、非凡な才幹の持ち主である。それは間違いない。


 だが、彼との交遊をどうしても曹植に懇願したいのだったら、せめてほかの人間と同じく、たとえば臨菑侯府の属官たちが曹植に建議をおこなうときと同じ条件で、つまり陽の光のもとで、言辞と論理だけを手段として訴えかけるべきではなかったか。


 あの晩はたしかに、夫婦として肌と心が重なり馴染んでいる今こそが、適切な機であるように思えたのだ。

 だが朝になってみれば、自分はある種の禁忌を犯してしまったのではないか、という思いに駆られざるを得なかった。

 少なくとも、あの晩の経緯をそのまま正直に叔父に申し述べることができるかと言えば、答えは否であった。


 あの晩の翌朝、夫の寝息を傍らに聞きながら、崔氏は眠気がさめやらぬながらもいつもどおりの時刻に何とか身を起こした。

 明け方の淡い光のなかで自身の首から下にぼんやりと目を落とせば、思いがけず素肌のままであり、自ら求めた―――というよりも交換条件のように差し出した、二度目以降の情事の余韻が、薄紅の花びらが散るように留まっていた。


 瞬く間に目が冴え、全身がいたたまれないほど火照りだすとともに、形容しがたい(やま)しさが唐突に襲ってきた。


(さかしらな、恥ずべきことをしてしまった)


 こちらの願いを聞き入れてもらうためには彼の望みに応えたいと思い、実際に懸命に応えたと思っている。

 伴侶と一切の隔たりがなくなる大切な営為をそのような手段に堕してしまったこと自体に、悲しみのようなものを感じないわけではなかった。


 だがそれ以上に、我が一身を以て夫の心に揺さぶりをかけられた、という事実のほうに、ある種の充足をおぼえたのだった。

 そして、ひどく唐突ながら、ある考えが浮かんだ。


 古来のさまざまな悪女の故事を―――容色や甘言により君主の心を迷わし破滅させたという妖婦・毒婦たちの故事を、「決してこうなってはいけない」例として幼いころから教えられてきたはずが、なぜか急に、彼女たちの心のありようが、その一端が分かるような気がしたのである。


(身近な他者を―――それも権力者を、権力に近しい者を、意のままに動かすことの(よろこ)びをおぼえ、抜け出せなくなったのだ)


 それが事実どおりかどうかは分からない。

 だが、己の肌の彩りを眺めながら、崔氏はその思いを振り払うことができなかった。






 その朝からだいぶ経っても、陳琳や彼の作品に対する言及を曹植の口から聞くたびに、崔氏の胸中には何か苦いものが染みた。

 あの晩はたしかに、自分ができる最も効果的な方法で―――他の者にはできない方法で夫の意向を動かした。動かすことができた。

 だからこそ、二度としてはならない、と思った。


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