(二十)床笫之言
そうして結局、崔氏が時を改めて曹植にこのことを訴えかけたのもまた、閨の牀の上であった。
出産の日からようやく干支が一巡し、つまりふた月を過ぎたころ、実に久方ぶりに肌を重ねた夜のことである。
侍医からも産婆からも経過は良好と言われていたが、崔氏当人にとっては、産後の房事というものには不安のほうが大きかった。
だが、初夜を再現するかのように慎重な夫の触れ方は、ぎこちないなかで配慮があり、彼女の胸奥で次第にいとしさが溢れだした。
思わず彼の頸の後ろに腕を絡めるようにして抱擁すると、耐えかねたような接吻が降り、やがて吐息の境目も分からなくなった。
互いの身体を離した後も、親密な気だるさは帳中に長く漂いつづけた。
燭台の火を落としてからずいぶん経ち、月明かりも牀の足元まで届いているので、ふたりとも暗さに目が慣れつつあった。
相手の表情も、絹の衾に覆われていない裸の肩も、おおよそ見て取ることができる。
ようやく息が静まってきた曹植は、横たわったまま崔氏のほうに向きなおった。
彼女のほうはまだ乱れた髪を整えるほどの余裕もなく、正視される恥ずかしさに耐えかねたが、大切にいとおしまれたという幸福感に包まれてもいた。
曹植はつと手を伸ばし、妻の額からこめかみへと髪を直してやっていたが、やがて耳の輪郭に触れ、耳朶をなぞった。
くすぐったさをこらえながら、ようやく収まってきた呼吸の合間に、崔氏はつぶやいた。
「金瓠にも、いずれ珥を選んであげなくては」
「気の早い話だ」
「女児が大人びるのは早いものです」
「そなたのほうが、よほど先に新調すべきではないか。
ずっと思っていたのだが、嫁いできたときから変えていないようにみえる。
明日にでも、鄴の市中で最高の宝飾を商う者を呼び寄せよう」
この場での思い付きというわけではなく、曹植は本気らしかった。
先日曹叡が訪ねてきた夕刻と晩のことを負い目に感じている部分がないわけではないにしても、別にそれが理由というわけではなく、崔氏が出産を終えて以来、その労を形に残るものでねぎらいたいと、長らく考えているようであった。
女児ひとりを生んだだけでここまで深情を示す夫は世の中では稀である。
火照りの残る崔氏の肌は、重ねて温もりを帯びた。
「ありがたいご配慮ですが、今の持ち合わせで十分です」
彼女とて、宝玉というものに全く興味がないわけではない。
自分が美しいと思う色や形のものを身につけて、そのうえ愛する人から似合うと言ってもらえたら、きっとうれしいに違いないと思う。
だが、曹植自身はごく簡素な装束を喜ぶ男である。そのうえ、彼が最も敬愛するところの婦人である生母卞夫人は、ほかでもなく質素を尊ぶ心映えによって名高く、曹操からも称賛を得ている。
さらに言えば、崔氏の叔父崔琰もまた、職掌である人事選考に際しては、当該人物の才気よりも素行が清廉であることを何より重視している以上、盟友の毛玠と同じく彼自身も質素を重んじることにかけては徹底していた。
当然ながら崔氏も、嫁ぐ前にはとりわけ念入りに、奢侈への耽溺を戒められたものである。
奢侈というものは慣れたら容易に抜け出せないものである以上、日々意識的に質素を心がけなければならないことは、彼女もよく分かっていた。
「消耗するものでは、ございませんので」
「かといって、未婚時代のままでいいということもあるまい。
いま着けているような翠玉もいいが、深紅の玉などはよく映えるのではないか。
そなたは産後とくに屋内にいる時間が増えたせいか、いっそう色白になった」
「お気持ちはうれしいですが―――」
「だが、肌色になじむような白を帯びるのも悪くはないか。
中原の産で物足りなければ、南海の珠玉はどうだ」
「話をお聞きになって、子建さま」
抗議するような声で崔氏が言うと、曹植は笑いで以て受け止めた。
崔氏も厳かさを装いつづけることはできず、仕方がないかた、と言うように、同じ笑いに染まっていった。
口元に笑みを残しながら、いまが機ではないか、と崔氏は思った。
この空気のもとでは子建さまは争論を好まれぬだろう、と見積もったのだともいえる。
「南海のいずこかは存じませんが、海中で生じる真珠なるものは、たいそう白く美しいと聞いてはおります」
「そのとおりだ。だから―――」
「ですが、もしもいま、願いを聞いていただけますなら」
「もちろん」
「江北からこの鄴に渡ってこられた輝かしい美玉をこそ、お心に懸けていただけませんでしょうか」
「江北、―――陳孔璋のことか」
こんなときにあの男のことか、と曹植は怒るよりむしろ呆れたようであった。
陳琳は長江下流域北岸近くにある広陵の出身であり、その名の琳も字の璋も、玉の種類を表している。
「前も言ったが、あれは父上と我が家をこのうえなく侮辱した」
「義父上さまご自身は、すでにお許しになっておられます」
「知っている。だが俺が許さねばならぬ理があるか」
「まことに、お父上を心より敬愛される子建さまの憤りが止みがたいのは、もっともなことです。
ですが、当時の孔璋さまは、大将軍(袁紹)のご命令を拒める立場ではいらっしゃいませんでした」
「そのわりには、あの檄文は生き生きと精彩を帯びて書きすぎだ。
ひとの家を貶めるのがそんなに楽しいか」
まるで陳琳当人が目の前にいるかのように、曹植は子どものように立腹を露わにした。
やはり、この点への怒りが拭えないのだと崔氏は思った。