(十九)文壇の交わり
しかしながら、檄文にて罵倒の限りを尽くされた当の曹操は、鄴を陥したのちに陳琳の帰順を受け入れ、その出色の文才に対し惜しみない評価を与えるという寛容さを見せている。
陳琳の才能を十全に活かしきれる職掌を彼に与えたのもまた、曹操の意向である。
果たして、丞相府に任用された後の陳琳は、それ以前にもまして公文書の執筆、とりわけ書や檄という分野において、同僚の阮瑀とならぶ双璧の才能をいよいよ高らかに発揮していた。
こうなれば、個々人の文筆の才が重んじられる丞相府界隈では当然、職務を離れたところでも、陳琳は文学活動を通じた交際に招じ入れられることになる。
とりわけ、曹植の長兄曹丕は父親と同様に早くから陳琳の才能を賞賛し、曹丕が主催する酒宴や文学競作の場にしばしば陳琳を招待し、特定の主題で作品を作らせては交流を深めているという。
曹丕は何といっても曹操の嫡長男であり、魏公の継嗣の地位に最も近い立場であるから、曹丕の愛顧を得られたのは陳琳のためによかったと崔氏も心から思った。
彼女の心に懸かるのはむしろ、夫の曹植が陳琳と意識的に距離を置いているのではないかということであった。
陳琳の側も曹植を敬遠しているのなら、それはそれで仕方のないことだが、事実はそうではない。
崔琰からの伝聞も含め崔氏が得られた限りの情報では、陳琳のほうは曹植と交流を深めることをむしろ願っているということであった。
それは、権力や地位に対する関心とはかかわりなく、陳琳は曹丕よりも曹植が生み出す作品により大きな感動をおぼえ、曹植から文壇の仲間として承認されることこそが文人として本望であるという純粋な思いにもとづくものであるように、崔氏には思われた。
そして、そうであるならばなおさら、陳琳の願いは受け入れられてほしいと彼女も願ったのであった。
最初のきっかけは、出産よりいくらか前、征討軍もまだ鄴から江東へ向かって出発していない時期のことであった。
曹植はまだ鄴の留守役の任に就いていなかったので、今よりもだいぶ時間があったころである。
時間があったので、曹植は楊脩をはじめ、文筆を能くするさまざまな友人や属僚たちと会合しては詩文を論じ、また、書簡も盛んに交わしていた。
曹植の書き物や蔵書の類は基本的に執事(秘書)が管理しているが、書房ではなく夫婦の閨の内に持ち込まれた書簡や書物については、執事もわざわざ乗り込んできて回収することはできない。
曹植も基本的には書房で読書や書き物をするが、就寝前に牀の上でくつろぎながら書物に目を通したり書簡の返信をしたためたりすることも好むので、夫婦の枕元をはじめ、閨の書架や几の上にはしばしば不規則に簡牘が積み上げられることになる。
一度目を通すと大体の内容が頭に入ってしまう人間の性なのか、曹植には整理整頓という観念が欠如したところがあるので、必然的に、それら簡牘の管理は崔氏の役目になった。
とはいえ、曹家の婦として外界から隔てられ、臨菑侯邸の奥深くにいながらにして当代一流の文人たちの手になる最新の作品を目にすることができるのは、まぎれもなく貴重な機会であり、なかなか得難い務めであるといえた。
そのなかで崔氏が気になったのは、陳琳から受け取った書簡に対しては、曹植は返書をしたためた形跡がないということであった。
夫の友人知人たちと夫の間で交わされるやり取りに関しては、夫人である自分が干渉すべきではない。
そう分かってはいたが、崔氏はどうしても気になり、あるとき消灯後の閨で、牀の上で隣に横たわる曹植に尋ねたことがあった。
産み月が近づき大きくなった彼女の腹部を撫でるその手のいたわりに、それとなく勇を鼓されたともいえる。
「まだ、起きておられますか」
「ああ」
「陳記室さまは、子建さまにしばしばおたよりをくださっていますね。つい昨日も」
「―――ああ」
唐突だな、と言いたそうに曹植は一瞬の間を置いた。
「子建さまから記室さまへのご返信は、書房のほうで書いておいでなのですか」
そう尋ねられた曹植は機嫌を損ねたふうではなかったが、ふたたび黙ってから、
「執事に書かせている」
と言った。
「今回に限って、ということですか」
「―――毎回だ」
「なぜですか」
「なぜそなたが気にする」
「出過ぎたことを申し上げているのは承知しておりますが、―――記室さまは、叔父と我が家にとって大恩あるかたなのです」
「知っている。以前聞いた」
「そのうえ、文才が群を抜いておられるのは衆目の一致するところなのですから、子建さまが胸襟をひらいて記室さまとご交誼を深められましたら、文章を談じ合うお仲間がたもお喜びになられましょう。
少なくとも、記室さまはそのようなご交際を望んでおられるかと」
曹植は答えず、そのまま中空を見つめているようであったが、
「あれは、父上と我が家を誹謗した」
と短く言うと、妻の腹部から手を離し、背を向けるように寝返りを打った。
そのときの会話はそのように終わったが、夫の声が険しくならなかったのを、崔氏は幸運だと思うべきだったかもしれない。
曹植は文学を政治や軍事の下にみるような態度をしばしば露わにするとはいえ、自らの文名に対する矜持は高く強く持しているだけに、文学を介した活動について他者からどうこう容喙されるのをまったく喜ばない。
何より、陳琳がかつての檄文で書き綴った曹家への中傷の文に対するわだかまりは根が深いものである。
それを思えば、その晩の彼の応答は、まだ穏健なものであるといえた。
(やはり、あまりに出過ぎた振る舞いかもしれない)
夫の寝息を聞きながら崔氏はそう思い、その晩が明けた後も何度か思いをめぐらしたが、しかし完全に断ち切ることはできなかった。
恩人に少しでも報いることのできる可能性が皆無ではないのに、その実現を早々に諦めるのは、忘恩そのものであるように思われた。