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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(十八)陳琳の檄

 崔氏は目を大きくみひらいた。

 曹操が在任する丞相という位は官職であるから世襲するものではないが、魏公の位はそうではない。

 曹操は魏公という自らの爵位を継がせるための世子を―――天下平定という自身の事業を引き渡す後継者を、息子たちのなかから選ぶことができる。


 魏公の世子はそれ自体が爵位に準じるような地位であるから、単に一家庭内の跡継ぎの指名とは異なり、一度定めたなら容易に変更できないものである。


 本来であれば曹操は、漢帝から魏公に封じられた直後に世子を定めていてもおかしくなかったはずが、現在に至るまで息子のうち誰を世子に立てるか言明していない。

 そのことは、崔氏もかねてより承知していた。


 しかし、よほどのことがない限り、諸子のうち嫡出かつ最年長者を世子として立てるのが理の当然である。

 曹操諸子のうち現在の最年長者はむろん、曹植の同母兄たる曹丕である。

 さらに曹丕は、曹操の現在の正室(べん)氏の実子の中でも最年長であるから、嫡長子という条件も満たしている。


 そのうえ、曹丕個人の資質は文武いずれにおいても群を抜いていることは、崔氏は結婚するより前、清河にいたころ出会ったばかりの曹植から何度となく聞かされてきた。






「なぜ、子建さまなのですか。義兄上さまに落ち度はございますまい。

 丞相からのご信頼も厚いと伺っております」


「信頼と情愛とは別もの、ということかもしれません」


 楊脩は静かな面持ちを崩さぬまま言った。


「丞相が臨菑侯へ並々ならぬご寵愛を注いでおられることは、貴女さまもかねてよりご存じのはず」


「はい」


「あの若さにして他者の追随を許さない圧倒的な文藻に加え、政治参加への盛んな意欲、虚飾を嫌い質実を尊ぶご性質、そして身辺の者へのたくまざる愛情深さを考えれば、無理もないことです」


「それは、そうかとは存じますが―――よもや義父上さまが、ご長男の五官将さまを差し置いて、子建さまを継嗣の地位にお立てになるなどということは」


 そうは言いつつも、崔氏は、曹植の亡き弟曹冲(そうちゅう)のことが頭によぎった。

 曹家の神童と呼ばれた彼は、その短い生涯を通じて曹操の寵愛を一身に集め、側室(かん)氏の所生でありながらも継嗣に立てられる可能性が極めて濃厚ではないかと周囲は憶測していたという。


「おそらくかねてより(くすぶ)っていたお考えかとは存じますが、丞相はこの近年、臨菑(りんし)侯のたぐいまれなご才質に対し、改めて評価を高めておられるのです。

 本拠地である(ぎょう)留守(りゅうしゅ)を侯に一任なされたことにも、そのご信頼は如実に表れておりましょう」


 たしかに、それは崔氏も気づいていたことだった。

 魏国の繁栄を担う中枢であり曹家の最も重要な権力基盤である鄴という大都会は、曹操が出征軍を率いて出発するたびに信任の厚い者が留守として指名されるわけだが、三年前におこなわれた関中征伐の際に留守を命じられたのは曹丕であり、曹植は父に従って従軍する諸子のひとりにすぎなかった。


 その頃の現実的な情勢からいえば、劉備や孫権ら南方・東方の勢力に不穏な動きがあった場合の抑えという意味で、鄴の留守という役職にはひときわ重い意味があった。


 一方、今年七月から曹植が任じられている鄴の留守も、むろん重大な役職であるとはいえ、東方には曹操軍の本体が向かっており、かつ西方の関中は治安が落ち着いて久しいので、曹丕が三年前に鄴の留守に任じられていた時期に比べると、緊張の度合いはやや低いとはいえる。


「そう、かもしれませんが」


「それに、臨菑侯夫人」


 改めて正式な称号で呼びかけられ、崔氏は帳越しながら楊脩を正面から見つめた。


「貴女さまとご結婚なされてから、臨菑侯はたしかに素行が落ち着いてこられました。

 あの奔放な御曹司があの厳格な崔季珪どののお身内とどれほどうまくやってゆけるやら、と思っていた方々は曹家の内外に多々いらしたようですが、その方々も今では考えを改めておられましょう」


「―――まことならば、身に余る光栄なお話でございます。

 ですが、それはひとえに楊主簿さまをはじめご友人の皆様や、ご属僚がたのご教導の賜物かと存じます」


 そうは言いつつも、崔氏の心は楊脩のことばに確かに揺さぶられていた。

 もしも彼のいうとおり、自分が嫁いできたことで曹植によい影響を及ぼし、曹植に対する周囲からの評価を高からしめているのだとしたら、これほど伴侶冥利(みょうり)に尽きることもない。


(主簿さまはわたしを、喜ばせようとしてくださっているのだ)


 額面通りに受け取るべきことばではない、ということは分かっていながらも、それでもなお、楊脩の話のつづきを聞きたい気がした。

 とても、聞きたい気がした。


 彼女の心境の変化を見越したかのように、楊脩は穏やかな微笑をいっそう深くした。


「ご謙遜を。つい近日も、陳孔璋(こうしょう)どのとの交遊に関して、臨菑侯にお諫めをなされたとか。

 侯は貴女さまのご助言にたがわず、孔璋どのと親しく書簡を交わすようになられましたから、貴女さまのご見識やご心情を侯がとりわけ重んじておられることは、間違いないことと存じます」


「まあ、それは―――」


 崔氏は思わず袖で口を押さえた。どうしてこのかたがご存じなのであろうと思ったが、たしかに曹植に口止めはしていないので―――口止めしたらそれが後ろ暗いことになってしまうと思ったので、口止めはしなかった。

 ゆえに、夫が親友の楊脩に「そのこと」をそれとなく話していたとしても、無理のないことではあった。


 陳琳(ちんりん)字孔璋は、崔琰と同じく、もとは袁紹の配下であったのが、鄴陥落の後に曹操に仕えるようになった官僚である。

 いま現在は記室(書記官)として、曹操に随い孫権征伐の軍中にある。

 詩や賦といった抒情・叙事的な文芸作品よりも、章・表・書・記といった公文書類を流れるような美文で書き下ろすことで絶大な評価を築いている。


 だが、崔氏個人にとって陳琳はほかでもなく、かつて叔父を苦難から救うために奔走してくれた大恩ある人物である。

 袁紹の没後、後継の地位を争っていたその遺児らは、袁紹の幕僚として名望の高かった崔琰をこぞって自陣営に引き入れようと試みたが、崔琰が病気を理由としていずれも辞退しようとしたため、あろうことか彼を罪人として投獄したのだった。


 このとき釈放のために尽力を惜しまなかったのが、袁紹のもとで同僚だった陳琳と陰夔(いんき)であり、彼らは崔琰の解放を成し遂げた後は、人を手配して清河東武城の崔家一門の()まで彼を送り届けてくれたのだった。

 劣悪な環境のために目に見えるほど衰弱していた崔琰を、幼い崔氏は家族らとともに涙ぐみながら迎え入れ、彼の体力が徐々に回復するまで交替で付き添っていた。


 そして、自らも連座しかねない危険を冒しながらも叔父を救い出してくれた恩人たちの名を、胸に刻み込んだのであった。


 その後、崔琰が曹操のもとへ出仕するのにともない、一家で鄴へ移り住んだ後、崔氏がまだ幼く行動の制約が少なかったうちは、叔父を訪問してきた陳琳をたまたま邸の表側で見かけたりすることはあったが、女子であるから正式に挨拶して面識を得る機会はなかった。

 それは曹植と結婚してからも同じである。


 しかし、曹植はしばしば陳琳の存在を意識していることを崔氏は折に触れ感じるようになった。

 それは、ひとつには当代一流の文人という世評を同じくする立場からの意識であり、もうひとつには、陳琳がかつて袁紹に仕えていた時期、袁紹と対立する曹操の汚点を数え上げ、曹操を討ち取る戦意を昂揚するために各方面へ送られた檄文の作者であるという意識である。


 この檄文が布告されたのは鄴陥落以前のことであるから、今より十年以上も前、曹植がほんの少年だった時期に著された作である。

 だが彼はこの文書のことを細部までよく知悉しており、その気になれば全文の暗誦もできたであろう。


 しかし夫は決してそうしないであろうことを、崔氏はよく分かっていた。

 およそ千四百字にのぼるこの檄文は冒頭から結句まで、曹操がいかに悪逆非道を尽くしてきたかと指弾する悲憤慷慨の筆致で貫かれている以上、曹植が腹に据えかねるのは無理もないことであった。


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