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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(十六)不意の使者

 そのとき、戸口の外から声をかける者があった。

 主に邸の表側で用務にあたる侍女のひとりだった。


「出征軍からのご使者を名乗る方が門のところまで来られまして、―――臨菑(りんし)侯さまに、直接お渡しせねばならぬ書簡があると」


「使者だと? 

 父上の本軍が合肥(がっぴ)を出立する旨の伝令は、このあいだ(ぎょう)に来着したばかりだが―――」


 曹植は訝しげに問い返したが、すでに立ち上がりかけていた。

 今日のこの時間はもともと友人を邸に迎えるために空けていたわけだが、公務に関わるかもしれない事態が生じたとすれば、話を聞かないわけにはいかない。


 かといって一般の官人を婦人用のこの区画にまで通させるわけにはいかないので、彼のほうから邸の表側に出て行かざるを得なかった。


「すまない、徳祖どの。書簡の受け渡しだけならば、すぐに戻れるとは思うが」


「どうかお気になさいませぬよう。

 ではわたしは、表の客間のほうまで下がっておりましょうか」


「ああ、―――いや、めっそうもない。ここにおられよ。

 夫人、よく相手をしてさしあげよ」


 崔氏にそう言い残し、曹植はこの房を後にした。

 彼が「めっそうもない」と強調したのは、自分がいない場で友人と妻の間に不穏なことが起こるなどとは(ごう)も疑っていないと伝えようとしたのであろうことは、崔氏にも分かった。


 実際、この場から乳母と赤子が去った後も、彼女と楊脩の間は絹の帳によって隔てられており、そのうえ、彼女の少し後方には話が聞きとれない程度の距離を保って侍女たちが何人も控えている以上、何かが起こるわけはない。






「ご婚礼からすでに二年以上ですから、いまさらと思われるやもしれませんが―――貴女さまが臨菑侯の伴侶となられましたことを、心からお慶び申し上げます」


 曹植が退席した後、帳を隔てた崔氏に楊脩が最初に告げたのはそのことばだった。

 曹植当人がいない場での発言だけに、そこには何の阿諛(あゆ)もない篤実そのものの響きがあり、崔氏は初対面の相手に対する緊張がほぐされてゆくのを感じた。


「もったいないお言葉でございます」


 礼を終えて顔を上げたとき、楊脩もやはり微笑を浮かべていた。

 名家の子弟の名に恥じない端然として気品に満ちた顔立ちに加え、ごく自然に抑制の効いた優美な挙措は見ているだけで心地よかったが、どこか懐かしさというか、既知の人を思い出させるものがあった。


(―――義兄上さまだろうか)


 彼の控えめなまなざしに触れるうちに、崔氏はふと思い当たった。

 曹丕の際立った冷静さと明哲さから鋭利さを取り除き、典雅な奥行きを持った柔和さを加えると、まさに楊脩のような周囲を惹きつけてやまない貴公子が出来上がるのだ。


 それでいて彼には衆人の馴れ合いを許すような緩みがなく、過不足なき節度を身にまとうがゆえに、ますます人々の尊敬を集めてやまず、なおかつ驕ることがないのであろう。


 そうしてみると、元々他人の出自にはあまりこだわらない曹植が友人たちのなかで楊脩を別格に遇しているというのも無理はない気がした。

 彼と対峙して歓談を重ねるのは、数多いる兄弟姉妹のなかでも最も親しい同腹の長兄と過ごすのに似た安心感があるのだろう。


「わたくしも、楊主簿(しゅぼ)さまのような声望高きおかたが子建さまと繁くお付き合いくださることを、まことに心強く存じております」


「声望だなどと。かの崔季珪どののお身内よりそのようなご褒辞を賜るのは、(おも)はゆい限りです」


「叔父とはご面識がおありだと、先ほどおっしゃっておられたように存じますが、さようでしょうか」


「ご挨拶程度ではございますが。

 ―――とはいえ今後は、臨菑侯を介してご厚誼を賜ることができればと願っております」


「子建さまを介して、でございますか」


 崔氏は意外の感をおぼえながら言った。


「―――申し訳ないことではございますが、叔父を含め、わたくしの実家の者と子建さまは、そこまで密な交流があるわけではございません。

 折々の祝いの品や季節ごとの挨拶などは交わしておりますが、それくらいです」


「そのように一線を引かれるのは、叔父君のご意向にもとづいてのことですか」


「はい。―――なぜそれを」


「いかにも季珪どのらしい、と思ったのです。

 臨菑侯のほうはあのように誰に相対しようとも打ち解けられるかたですから、奥方のご親族と親しく行き来をすることもやぶさかではいらっしゃらない。

 だが、季珪どのは姻戚という立場に甘んじてそのように格別なご愛顧を受けることは何としても回避したいと、意識的に自律しておいでなのでしょう。


 おそらくは、ご家中の方々にもそのようにお達しを出されている。

 季珪どののご子息をはじめ、貴女さまのご一門に出仕にふさわしい年齢の方はおられるかと思いますが、臨菑侯の属僚としてとりたてられたというお話は聞きませんな」


「さようでございます」


 さすがに見通しておられる、と崔氏は思った。

 ゆえに、この話題はここまでかと思ったが、そうではなかった。


「夫人におかれましては、ご実家のかたがたが―――とりわけ父親代わりでもあられる叔父君が、ご夫君と疎遠なご関係でいらっしゃることに、ご満足でしょうか」


「おそれながら、疎遠というほどでは」


 崔氏は否定しかけたものの、しかし先ほど自分で述べたように、さほど親密ではないのは事実である。

 そして、楊脩の言葉は確かに、彼女が決して口に出さないものの結婚以来胸中にずっとしまいこんできた想念を、ふっと浮上させるものであった。


「―――むろん、子建さまと我が叔父の距離がより近づき、肉親のように打ち解け合えるならば、本望ではございますが」


「無理もないことです。

 そうなれば、貴女さまにとっては実の弟に等しい従弟のかたがたも、子建さまに親しくお目をかけていただき、こちらのご邸宅にも足繁くお通いになることができましょうな」


「―――ええ」


 本来は肯定すべきでないと分かっていながらも、崔氏は思わず小さくうなずいた。

 もしここで、「栄達の道が開かれるでしょうな」とより直截(ちょくせつ)に囁かれたならば、却って警戒心を強めたところであろうが、楊脩から示された、肉親を日常的に近くへ呼び寄せることができるかもしれないという想像は、崔氏の心を容易に温めるものだった。


 それほどに、彼女が嫁いできたこの曹家では―――清河崔氏一門がこれまで婚姻を結んできた諸氏族よりはるかに格上のこの家では、結局のところ、夫以外に心から頼みにできる相手がいないということでもあった。


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