(十五)提案
「無事に百日をお迎えになられたこと、心よりお慶び申し上げます」
「こちらこそ、今日のためにわざわざ足を運んでいただいた。
改めて礼を申し上げる。
それにしても、うちのむすめはかわいいと思わないか」
帳越しに聞こえる曹植のことばに、崔氏はやや居たたまれなく目を伏せた。
楊脩も本日この手の話題を振られつづける心づもりはしてきたであろうとはいえ、金瓠はまだ、傍目にはほかの赤子と区別しづらいほどに幼い乳児である。
曹植の目にはこのうえない美質と映る我が子の仕草や表情について、これから際限もなく延々と聞かされるのは、いくら親友とはいえさすがに憔悴するだろう。
そのあたりでお止めになって、と崔氏は曹植に対し帳越しに手振りで訴えかけたが、もちろん通じはしなかった。
そんなやりとりを露知らぬかのように、楊脩は依然として穏やかに友人のことばを受け止めた。
「まことに、愛らしい御子でいらっしゃいます。
この小さきお顔をご覧になるたびに、いかなる懊悩をも解きほぐされましょう。
侯が朝夕お心に懸けておられるのは、まことに無理なきこと」
儀礼的という以上に心のこもった答えを友人から得た曹植は、それまでにもまして顔を輝かせた。
「そうなのだ。実際に生まれてみるまでは、むすめひとりをこんなにかわいく思うとは想像もしなかった。
あと十五年やそこらで嫁に出さなければならないと思うと、いまから胸がつぶれそうだ」
「もっともなことと存じます」
「世の中の父親はみんなそれに耐えているのか。信じられん」
「さようですな」
「―――そうだ!」
前触れもなく、曹植が突如歓声をあげた。
「なぜいままで思い至らなかったのだろう。
願わくは、徳祖どのの令息に金瓠を娶ってもらえまいか。
それならば、たとえ嫁に出してもよそにやったという気がしない。
徳祖どのが義父ならば何の不安もない」
天啓が下りたかのように顔を輝かせて語る曹植に、帳の向こう側の崔氏は絶句した。
我が子を天下の弘農楊氏と縁づけられるならば、それほどの名誉も世の中にそうそうないが、しかしいくらなんでも唐突に過ぎる。
さすがの楊脩も、彼には珍しく不意打ちを食らったような表情を一瞬浮かべたが、すぐに平素の柔和な笑顔に戻った。
「まことに光栄なお話ですが、―――ご承知とは存じますが、我が家には、男児はまだおりませぬ」
「むろん承知している。子桓兄上と義姉上のところもそうだが、五歳ぐらいまでなら花嫁が年上という夫婦もありうるだろう。
それに仮に来年に令息が生まれたとしても、加冠してから妻帯するならば、こちらは二十年以上はむすめを手元に置いておけるわけだ。
願ったりかなったりではないか」
「子建さま」
崔氏はとうとう声をあげ、帳越しに夫を諫めた。
「楊主簿さまは困っておいでです。そんな重大なお話を思いつきでなさるなんて」
「ああ、―――徳祖どの、すまない。
思い至ったのはたしかに今だが、しかし本気だ」
「お詫びなど滅相もない。身に余るお話に感謝申し上げます。
しかし、もしも現実に婚約の運びとなりましたら、我が父に許しを得なければなりません。
おそらく臨菑侯におかれましても、丞相の―――お父上のお許しが必要では」
「それは、―――そうだな、そのとおりだ」
楊脩の口から父ということばを聞くと、曹植の声がそれまでの昂揚を失い、だいぶ沈静を取り戻した。
楊脩の父楊彪は、董卓の暴政そして李傕・郭汜の動乱を経て漢王朝の権威が地に落ちてもなお今上帝の身辺を常に護り、司空・司徒さらに大尉の地位を歴任したが、その忠勤ぶりがあだとなったか、今上帝を許昌に迎え奉った曹操によって嫌疑をかけられ、投獄の憂き目をみたことがある。
楊彪の妻すなわち楊脩の母である袁氏がその当時称帝していた袁術の親族であるという理由で、大逆罪の名のもとに弾劾されたのである。
同じく朝臣である孔融の弁護により、楊彪は結局は釈放されたが、投獄期間中には所定の尋問を受け、もと高官であることは斟酌されなかったという。
このとき楊彪の取り調べを掌った許の県令は満寵といい、尋問を加えた結果楊彪に疑わしいところはないことを曹操に伝え、即日の釈放に踏み切らせたというから、むしろ配慮あるがゆえの尋問であったとはいえよう。
しかし、「所定の尋問」は、高齢の身にとって容易に耐えられたはずはない。
楊彪をめぐる事件については、曹植と楊脩の間で―――生命を脅かした側の息子と脅かされた側の息子の間で話題にすることを避けているのであろう、と崔氏はかねてより想像していたが、いま目の前の空気の変化に触れてみると、たしかにそうなのだろうという思いを新たにした。
「もちろん、今ここで決めていただきたいのではない。
ただよろしければ、この先も心に留めておいてくれまいか」
「むろん」
先ほどよりもだいぶ落ち着いた曹植の声に対し、楊脩は変わらぬ笑顔で応えた。
崔氏には彼の表情はおぼろげにしか分からないが、しかし彼が生来の香りのようにまとう穏やかさ、動じなさこそが曹植を惹きつけ安心させているのであろうという気がした。
ふと、乳母の腕の中の金瓠が少しずつぐずりはじめ、次第に大きな声で泣きはじめた。
時間からいえば授乳の機だと思われたので、崔氏は乳母に声をかけて赤子を隣の房に連れ出させた。
彼女も日ごろ乳母と交替で乳を与えてはいるが、いまはさすがに夫と客人の前にとどまった。
去りゆく赤子のほうに目を遣りながら、楊脩は自然な温かみのこもった声で言った。
「いずれにしても、ご令嬢がこれからもいよいよお健やかにお育ちになることを、願ってやみません」
「かたじけない。
しかし、育つにつれて手放さねばならぬ日が近づくと思うと、それもまたつらいな」
「ご心中をお察しいたします」
「むすめを持ってみると、改めて季珪どのの―――我が妻の叔父の偉大さが分かった」
いきなり自分の親族を持ち出されて、崔氏はふたたび帳越しに耳をそばだてた。
「徳祖どのは、季珪どのが丞相府にお勤めだったころ、面識はおありだったか」
「部署は離れておりましたが、何度かお目にかかる機会はございました」
「そうか。いまは魏国尚書の地位におられるが、人格者という評判はたえまなく聞こえてくるだろう」
「まことに」
「妻は、季珪どのとは単に叔父と姪というだけの間柄ではなく、実のむすめ同然に季珪どのの手元で育てられたのだ。
夫婦であのかたのもとを訪ねるときも、さほど感情を表に出されることはないが、掌中の珠のように気にかけておられることは伝わってくる」
「評判に違わず、情愛深いおかたですな」
「そうなのだ。だからこそ、よく俺に嫁がせたなと思う。
こうしてむすめを持つ父になってみると、俺は俺みたいな男には絶対にむすめをやれない」
「……なるほど……」
さすがに楊脩も相槌を打つべきか迷っているようだが、崔氏は帳の向こうでひとり肯首した。
思いがけなくも曹植を愛するようになった自分が自らの意志で彼に嫁いだことと、自分のむすめが曹植のような男に嫁がされるのとでは、天と地ほどの差がある。
たとえ愛情が芽生えようと、結婚後は気苦労に気苦労を重ねる予感しかない。
(わたしも、金瓠が子建さまのような夫を持つことになりかけたら、断固として阻止しなければ)
母としての決意を胸に抱きながら、崔氏は同時に、子建さまは意外とご自分のことをよく分かっておられるのだ、と思った。
そのわりに反省がないのが大問題だわ、とも思った。
「ここにきて、季珪どのの度量の深さが改めて分かった。
季珪どのにしてみれば、我が父から―――上司から通婚を請われた以上、断るという選択肢は事実上なかったかもしれないが、そうだとしても、おそらく大いに不安をおぼえながらも愛女同然の姪御を俺に託してくださったのだ。
その信任を裏切ってはならないと、自分が父親になってみて心からそう思った。
世の父親はみな、多かれ少なかれ、そういう不安と葛藤しながらむすめを他家に嫁がせているのだな」
その声を聞きながら、崔氏は我知らず目を伏せた。
夫は自分に聞かせるために言っているわけではないと思うが、それでも、胸と頬が少しずつ熱くなった。
「だが、徳祖どのの御子息なら、金瓠を嫁がせても不安ではないと思うのだ」
(子建さま!)
先ほどの話題を急に思い起こして明るくなった夫の声に、崔氏はいきなり現実に引き戻された思いであった。
楊脩は控えめな態度を崩さないまま、莞爾として応じた。
「身に余るおことばですが、何分まだ生まれておりませぬ」
「じつに残念だ。朗報を待つ」
曹植は真顔でそう言いながら、そなたも同じ気持ちだろう、と言いたげに帳の向こうの妻を見やった。
彼女としてはむろん、夫の親友のために男児誕生を願うことの正しさ自体は否定しようがない。
やむをえず帳越しにうなずいたが、この件については、今日の夜にでも改めて夫と話をしなければならないと思った。