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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(五)男女は親授せず

「ともかく、いま言ったことは忘れてくれ。俺は何も見なかった。

 少なくとも、肌をさらしたことはそなたの落ち度ではない」


「―――落ち度です。もともと救助はご入用でなかったのに、勝手に飛び込んだわたくしが軽率だったのです」


「たしかに、助けは不要だった」


 青年は真顔でうなずいた。崔氏はいっそう居たたまれなくなった。


「だが、死ぬほどの恥ずかしさと引き換えにしてまで、本気で助けようとしてくれたことには、感謝している」


 だからほら、と彼は真顔のまま手を伸ばした。

 何者かに背中を押されたかのように、崔氏は自分でも思いがけないほど躊躇なく彼の手を握り、そのまま大岩の上に引き上げられた。


 水に浸かっていらしたわりには温かい手だ、と崔氏は思った。そして、足場はすでに安定していることに気がつき、急いで手を離した。

 自分がいつまでも握っていたことが恥ずかしかった。


 ふたりとも平らな岩の上に膝をついた形になり、目線の高さがほぼ同じになった。


「―――お手を貸していただき、ありがとうございました」


「殴ってもいいぞ」


「え?」


「俺を一発殴れば気が晴れるだろう。見られたことはなかったことにすればいい」


 何をおっしゃっているのかこのかたは、と崔氏は思った。

 だが、膝より下の裸脚を見られたことを未だ気に病んでいるのはそのとおりだった。


「そう簡単に、死にたいと思いつめるものではない。今しがたのそなたは、誇張でなく本気でそう言っているように聞こえた」


「―――真情にあらざれば、口にすべきでないと教えられました」


「誠実な家風だな。

 だが、素足を見られたぐらいで死にたいと思っていては、許嫁(いいなずけ)や夫以外の男の手からものを手渡されたりした日には、自害でもするのではないか」


「さすがに、そんなことは」


「ならばよいが」


 そういって青年は、細長く平たいものを掌に載せて彼女に示した。皮製の鞘に収まった短刀だった。鞘からは紐が伸びている。


「そなたがひとりで上がろうとするのを待っていたとき、このあたりに落ちているのを見つけた。見覚えはあるか」


「―――わたくしのものです。ありがとうございます」


 崔氏は礼を述べた。もともと腰帯に下げていたものだが、おそらく先ほど全力で走り出したときに、強い振動のためにおのずと解けてしまったのだ。


「―――地面に置いていただいても、よろしいでしょうか」


 短刀を手にもって差し出したままの青年に、崔氏は頼んだ。彼は一瞬ぽかんとしたが、請われるがままそれを二人の間の地面に置き、彼女がそれを拾い上げるのを見ると、愉快そうに笑いだした。


 数え十七歳の崔氏から見てさほど年齢が離れていないほど若い男だが、笑うといっそう幼い感じになった。


「誰が見とがめるわけでもないのに、じつに律儀なことだ」


 崔氏は鞘の紐を腰帯に結い直しながら、努めて平坦に返答した。


「男女の別は礼法の基本です。他者の目の有る無しで左右されるものではございません」


「―――まあそうだな。男女は親授せず(てわたししない)、嫂叔は問を通ぜず(たずねあわない)*―――いずれも、しなくてすむならしないほうがよい」


 ほんの一瞬、青年の声から軽やかさが消えた。

 そしてふと意識をこちらに戻したかと思うと、はっきりと真顔になった。


「まさかその刀は、何かあったときのために、自刃(じじん)のために携帯しているのではないだろうな」


「―――それが目的では、ございません」


「ならばよいが。

 先ほどは、俺のような見知らぬ男が相手でも、命を大事に思うからこそ助けようとしたのだろう。ならば、自分の命も大事にすべきだ。

 たとえ、一時の恥辱と引き換えにしてでも」


 青年は真顔のままそう言った。

 女子に堅貞を求めないとは変わったかただ、と崔氏は思った。

 だが同時に、その声の真摯さが、胸の奥の深いところで響くのを感じた。




*『禮記』曲禮上

男女不雜坐、不同椸枷、不同巾櫛、不親授。嫂叔不通問、諸母不漱裳。


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