(十三)楊脩の来訪
「お父さまが、お友達をお連れになったわ」
午睡から目覚めてまもない金瓠を抱き上げた崔氏は、むすめにゆっくり語りかけながら、窓際へ連れていった。
やわらかな陽光と冷気がよく調和した、孟冬の午後であった。
ひらいた窓の向こうには中庭があり、その向こうにはこの邸の主だった建物がならんでいる。
それらの建物をつなぐ回廊を、ふたつの人影が歩いていた。
先導役の一方はしきりにもう一方を振り返っては何かを語りかけている。
その何気ないそぶりだけでも、彼がいかに相手に親しみを感じ、心を許しているかが伝わってくる。
崔氏たちがいるのは婦人の居住区画なので、この邸全体のなかではひっそりと奥まったところにあるが、この窓からはほかの棟や回廊などを見渡すことが容易である。
崔氏がいう「お友達」は、彼女の目からみて夫が最も親愛している友人、楊脩であった。
丞相府に勤めて主簿の役職にあるので、周囲の人間が彼を呼ぶとすれば楊主簿であるが、夫がこの友人について語るときは常に字の「徳祖」を用いている。
丞相府官僚ではあるが、現在の職務の一環として魏国との連絡を密にする都合上、主簿の任に遷ってからは鄴に滞在することが多くなってきている。
殊に、約三か月前の今年七月に曹操が孫権征伐の軍を率いて南下し、丞相府の機能を許都に集中させる必要がなくなってからはそうであった。
そのように、楊脩の現在の身の上は丞相府の若手官僚であるとはいえ、血筋からいえば高祖父の楊震以来四世にわたって三公を輩出してきた弘農楊氏の嫡系である。
同じく「四世三公」と世に称えられる汝南袁氏が官位相応に奢侈を尽くした暮らしぶりで知られているのとは対照的に、楊氏一族は「関西の孔子」と称された楊震の遺徳に背くことなく、清貧と言ってよいほどの清廉な家風を以て世に聞こえている。
官位や名声を等しくする汝南袁氏とは通婚もする間柄ではあるが、江湖の見識ある者の多勢は、弘農楊氏の令名を別格に仰ぎ見るという。
まして、蓄財と権力掌握に励む「濁流」こと宦官を祖父にもつ曹操の一族とは、実に対照的な家門であるとされてきた。
それほどの家名を背負う楊脩という人物は、名門の子弟にふさわしく、仕官の適齢期を迎えた当初は孝廉に挙げられて漢朝に徴され、帝のそば近くに近侍していた。
その後、すでに丞相の地位にあった曹操の目に留まって辟召され、丞相府官僚へと転身したのであった。
当初は倉曹属、次いで主簿に任じられたが、曹操自らに引きぬかれた若き俊英は、果たして驚くほど要を得て行き届いた実務の才を淡々と発揮した。
それに加え、累世の貴公子ならではの巧まざる品格と深い教養、際立った知性で以て、丞相府内外のひとびとを魅了しつくしたのだという。
政治・軍事上の実力からいえばいまや華北の最有力者である曹操を父に持つ御曹司たちでさえ、争って辞を低くし彼と親交を結ばんと努めたものの、結局、楊脩が最も近しい友人として選んだのは第三公子曹植であった。
曹植自身の口から聞く限りでは、彼と楊脩が結んだ友誼は日に日に強まっているかのように、崔氏には思われる。
実際のところ、「丞相の子息だから楊脩と友人になれた」というのはおそらく正確ではない。
曹植の兄曹丕もまた、同時期に楊脩へ交友を求めたそうだが、実質的な副丞相であり曹操の諸子のなかで本来最も権勢をもつはずの彼に対しては、楊脩の対応は礼儀正しいがごく淡白なものであったと、叔父たちからは聞いているからだ。
崔氏の叔父崔琰と族父崔林はいまは魏国の官僚だが、その前身は丞相府勤めであるため、丞相府内部にはゆかりの者が多いのである。
官僚としての立場からいえば楊脩は丞相の御曹司たる曹兄弟に一定の遠慮を示さなければならないとはいえ、比類なき名門の嫡系であり個人としても才穎の誉れ高い彼は、曹兄弟はじめ世の貴公子たちからこぞって交友を求められてきた身である。
つまり楊脩が人脈を築くにあたっては、もとより豊富な選択肢があった。
そのうえで、曹植を第一の友人として選んだわけであった。
楊脩がそのような選択をした理由までは崔氏には分からないが、天井知らずの文才という点で曹植は曹丕を大きく引き離しているというのが、父曹操をも含めた世人の総評である以上、楊脩が曹植に惹きつけられた第一の理由もやはりそこにあるのかもしれない。
とはいえ曹丕のほうも、文筆家としての非凡な才能を具えていることはまちがいなく、そのうえ自身の属僚にも一流の文学者たちを揃え、詩賦を応酬しては切磋琢磨することに日々いとまがないという。
そうであるならば、楊脩の目からみて、このふたりの兄弟の間にそれほど大きな差異があるわけではないのではないか。
むしろ、兄と弟の同時に両方から親交を求められたならば、長幼の順に即して兄との交遊に重きを置いたほうが、両者からの恨みを買う度合いは小さいはずだ。
それでいながら弟のほうを選んだのは、かなり明確に楊脩個人の感性が働いたのであろう。
不思議なこと、と崔氏は思いつつ、それでも、と重ねて思った。
「楊主簿さまもやはり、そなたのお父さまの、お父さまらしいところをお好きなのだと思うわ」
腕の中で目をぱちぱちさせているむすめに語りかけながら、崔氏は自分で自分の言ったことに小さく笑った。
四世三公を出した家の嫡系といえば、天下の貴公子のなかの貴公子であるのに、世の規格を規格とも思わず我が道をゆく曹植のような青年に、なすすべもなく心を惹かれるということがありうるのだ。
不遜な思いだとは知りながら、もしもかの貴公子と直接ことばを交わす機会があれば旧知のように話が弾むかもしれないと、そんな気がして心が明るくなったのだった。
楊脩とことばを交わす機会というのは、実際のところ全くの空想というわけではない。
たったいま曹植が彼を連れて邸に戻り、本来他家の男性が足を踏み入れるはずのないこの区画へと彼を伴い向かってきているのは、そもそも金瓠と崔氏に引き合わせるためであった。
七月の初めに生まれた金瓠はいま、十月の半ばに至り、ちょうど生後百日を迎えようとしていた。
生後百日の嬰児を、それも嫡男でもないただの女児を親族でなく友人に披露するというのは一般的な慣行ではないが、そこまで角がたつことでもない。
むしろ曹植としては、孫権討伐の東征軍が出発して数か月が経ついま、鄴からは主な肉親がほぼ出払っており、金瓠のために正式な百日の祝いを設ける予定はない以上、せめて肉親と同様に親しみを感じている特別な友人から愛女に祝賀のことばをかけてもらいたいという思いなのであろう。
金瓠は男女の別を意識しないといけない年齢でもないのだから、それならばそれでよい。
崔氏にはどちらかといえば、むすめとともに自分がその場に同席するよう曹植から求められたことがやや気になった。
「徳祖どのは、そなたにも挨拶をしたいのだそうだ」
むろん、赤子のほかにも夫や乳母たちが同席する場であり、そのうえ楊脩とは帳を隔てたままの面会を予定している以上、礼法において問題はないはずである。
しかし、これまで夫のほかの友人あるいは属僚たちに対して、同様に引き合わされたことは一度もない。
(それほどに、特別なご友人なのだ)
戸惑うことは戸惑ったが、崔氏としてはそのように解するほかなかった。