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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
138/166

(十二)口実

 曹植は呆気にとられた顔をしていた。

 少し間を置いてから、ようやく口をひらいた。


「とうに伝わっていると思っていた」


 崔氏は答えなかった。

 曹植は彼女から顔をそむけ、しばしの沈黙ののち、つづけた。


「そなたの情の深さに甘えてきちんと伝えてこなかった俺が、悪かったと思う。

 好きだ。これは本当だ」


 そして、顔を合わせないまま、妻の手を握り直した。


「伝わるまで、何度でも言い直したいが、―――ことばを費やすほど、虚妄のように聞こえてしまう気がする。

 書は言を尽くさず、言は意を尽くさずというのは本当だ」


 彼はそれ以上言い連ねず、ただ自身の膝上をみていた。

 曹植はおそらく、当今の天下で―――あるいは漢朝四百年を振り返ってみても―――最も言辞に長じている者のひとりである。

 その当人が、ことばに言い表せないことを恐れるというのもまた、おかしな話であった。


 崔氏は彼に手を委ねたまま、小さく笑みをこぼし、かすかにうなずいた。

 いまのお言葉を信じます、と伝えたつもりであった。


 甄の義姉上よりずっとそなたが好きだ、比べようもなく愛している、ということばを―――結婚する前も後もずっと聞きたかったことばを、曹植がいま正面から目を見つめて告げてくれたとしても、


(わたしのせいで、子建さまに無理をさせている)


と感じてしまうにちがいなかった。


 そういう意味では、妻が聞きたいことばを安易に口にしない曹植は、たしかに誠実な夫たろうとしているのだといえた。


 傷ついたことをなかったことにはできない。

 だが、いまのことばにも嘘はないと、崔氏は思った。

 自分からもそっと、手を握り返した。






 よく澄んだ空気を少しずつ裂くように、鳥たちの声が聞こえてきた。

 窓の外ははっきりと白みはじめている。


「朝だな」


「ええ」


「俺は少ししたら登庁するが、今日は昼間にしっかり休め」


「はい。―――子建さま」


「どうした」


「もう、隠し事はございませんね。窃視のような」


「ああ、―――」


 曹植は一瞬考えるような表情になり、何かに思い至った。


「―――いや、そういえば、まだあった」


「まだ?」


 崔氏は握られた手を振りほどいて顔を夫の方に向け、呆れたというより強く問いただすような視線を向けた。


「どういうことです」


「玉環だ」


「玉環?」


 問い返してから、崔氏は気がついた。

 夫と自分の間である種の(・・・・)了解ができている玉環といえば、ただひとつしかない。 


「玉環とは、あの、義姉上さまの、―――子建さまが危うく我が家へ忘れてゆかれそうになった」


「あれは、わざと置いていった。置き忘れたのではなく」


 崔氏はことばもなく、双眸を大きく瞬いた。

 あの春の日、曹植が清河の崔氏宗家を辞去していったのち、崔氏は彼の寝所を片付けながら、(しとね)の間に精巧な玉器を見つけたのだった。

 思い焦がれてやまない婦人から贈られたという、曹植のふたつとない持ち物だった。


 これほど大切なものを他人の家にお忘れになるなんて、と心の底から驚き呆れたことを、崔氏はいまでもよくおぼえている。

 だからこそ、頭が混乱して、話についていけなかった。


「ひょっとして、ずっと気づいていなかったのか。

 あのとき貴家を出発してから、俺が『忘れものをした』と言い出して折り返す途上で、公幹(こうかん)劉楨(りゅうてい))からも『見え透いたことをなさるものだ』と呆れられたぐらいだが。

 子昂(しこう)邢顒(けいぎょう))に至っては、いつにもまして苦々しそうな顔をしていた」


「見え透いたとは、どういう―――」


「貴家に滞在している間、そなたひとりが俺の世話をしてくれていたから、俺がいなくなった後の(へや)の始末もそうだろうと思っていた。

 貴家の書庫から借り出した簡牘(かんとく)をそのままにしていったのも、念のためだ。

 書物がある空間ならば、文字を識らぬ使用人だけに片づけを任せることはあるまいと」


「それは、たしかに、わたくしが片づけをいたしましたが―――どうして、わざと置いていくなど」


 問われた曹植は軽く驚いたように妻を見返し、やや口ごもってつづけた。


「そなたに会う理由になるだろうと思ったからだ。

 俺にとってのあの玉環の重みをそなたは知っているから、第三者を介するのでなく、自分の手で返してくれるだろうと思った」


「―――会って、どうなさりたかったのです」


「自分でも分からん。

 ふたたび求婚しても困らせるだけだろうと思っていたから、そのためではない。

 ただ、もういちど会って―――ひとめ見て、ひとこと交わしたかった」


 そこまで言って、曹植は視線を落とした。


「そなたが他の男のものになる前に」


 崔氏もまた、彼とは違う方向に目をそらした。

 顔が熱くなっていた。


「だから、俺が戻ったときにそなたがああしていた(・・・・・・)のを見て、ことばに表せない気持ちになった」


 そこまでいうと曹植は、ふと説明を放棄したかのように、両腕をひらいて崔氏の身体を抱きすくめた。

 そしてそのまま、白い首筋から肩へ背中へと絹糸のように滑り落ちる妻の黒髪に、軽く顔をうずめた。


「娶ると、朝からこういうことができていいな」


 何をおっしゃっているのかこのかたは、と崔氏は心中で逆上しかけたが、実際に口から発せられたのは、自分でもかろうじて聞き取れる程度のかぼそい声だった。


「こんな、―――朝からこんなことをする夫婦はおりません」


「いやか」


「―――――――――――――いやでは、ないですけれど」


 これまで以上に目元を赤く染めながら、崔氏もまた、彼の背中にためらいがちに手を回した。






 ふいに、金瓠(きんこ)が火のついたように泣き始めた。

 崔氏はたちまち夫を押しのけて立ち上がり、むすめが横たわる小さな(ねどこ)をのぞきこみに行った。

 曹植のほうは、きつく眉をしかめながら両のこめかみを押さえている。


「強烈だ。赤子の泣き声というのはこれほどまでに響くものか」


「節度なくお酒を飲まれるかたには、そうかもしれません」


 言いながら崔氏はむすめを抱き上げ、泣いた原因を探ろうとしたが、その前に、


「お父さまに行ってらっしゃいをしましょうね」


と金瓠の手を取り、父親のほうに向けさせた。


「わかった。行ってくる」


 曹植は早くも憔悴した顔で、戸口に向かって歩き始めた。

 その背中を見送りながら、崔氏は泣き続ける赤子をなだめるように唇を寄せ、そなたもお父さまに行ってほしくないのね、とつぶやいた。


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