(十二)口実
曹植は呆気にとられた顔をしていた。
少し間を置いてから、ようやく口をひらいた。
「とうに伝わっていると思っていた」
崔氏は答えなかった。
曹植は彼女から顔をそむけ、しばしの沈黙ののち、つづけた。
「そなたの情の深さに甘えてきちんと伝えてこなかった俺が、悪かったと思う。
好きだ。これは本当だ」
そして、顔を合わせないまま、妻の手を握り直した。
「伝わるまで、何度でも言い直したいが、―――ことばを費やすほど、虚妄のように聞こえてしまう気がする。
書は言を尽くさず、言は意を尽くさずというのは本当だ」
彼はそれ以上言い連ねず、ただ自身の膝上をみていた。
曹植はおそらく、当今の天下で―――あるいは漢朝四百年を振り返ってみても―――最も言辞に長じている者のひとりである。
その当人が、ことばに言い表せないことを恐れるというのもまた、おかしな話であった。
崔氏は彼に手を委ねたまま、小さく笑みをこぼし、かすかにうなずいた。
いまのお言葉を信じます、と伝えたつもりであった。
甄の義姉上よりずっとそなたが好きだ、比べようもなく愛している、ということばを―――結婚する前も後もずっと聞きたかったことばを、曹植がいま正面から目を見つめて告げてくれたとしても、
(わたしのせいで、子建さまに無理をさせている)
と感じてしまうにちがいなかった。
そういう意味では、妻が聞きたいことばを安易に口にしない曹植は、たしかに誠実な夫たろうとしているのだといえた。
傷ついたことをなかったことにはできない。
だが、いまのことばにも嘘はないと、崔氏は思った。
自分からもそっと、手を握り返した。
よく澄んだ空気を少しずつ裂くように、鳥たちの声が聞こえてきた。
窓の外ははっきりと白みはじめている。
「朝だな」
「ええ」
「俺は少ししたら登庁するが、今日は昼間にしっかり休め」
「はい。―――子建さま」
「どうした」
「もう、隠し事はございませんね。窃視のような」
「ああ、―――」
曹植は一瞬考えるような表情になり、何かに思い至った。
「―――いや、そういえば、まだあった」
「まだ?」
崔氏は握られた手を振りほどいて顔を夫の方に向け、呆れたというより強く問いただすような視線を向けた。
「どういうことです」
「玉環だ」
「玉環?」
問い返してから、崔氏は気がついた。
夫と自分の間である種の了解ができている玉環といえば、ただひとつしかない。
「玉環とは、あの、義姉上さまの、―――子建さまが危うく我が家へ忘れてゆかれそうになった」
「あれは、わざと置いていった。置き忘れたのではなく」
崔氏はことばもなく、双眸を大きく瞬いた。
あの春の日、曹植が清河の崔氏宗家を辞去していったのち、崔氏は彼の寝所を片付けながら、褥の間に精巧な玉器を見つけたのだった。
思い焦がれてやまない婦人から贈られたという、曹植のふたつとない持ち物だった。
これほど大切なものを他人の家にお忘れになるなんて、と心の底から驚き呆れたことを、崔氏はいまでもよくおぼえている。
だからこそ、頭が混乱して、話についていけなかった。
「ひょっとして、ずっと気づいていなかったのか。
あのとき貴家を出発してから、俺が『忘れものをした』と言い出して折り返す途上で、公幹(劉楨)からも『見え透いたことをなさるものだ』と呆れられたぐらいだが。
子昂(邢顒)に至っては、いつにもまして苦々しそうな顔をしていた」
「見え透いたとは、どういう―――」
「貴家に滞在している間、そなたひとりが俺の世話をしてくれていたから、俺がいなくなった後の房の始末もそうだろうと思っていた。
貴家の書庫から借り出した簡牘をそのままにしていったのも、念のためだ。
書物がある空間ならば、文字を識らぬ使用人だけに片づけを任せることはあるまいと」
「それは、たしかに、わたくしが片づけをいたしましたが―――どうして、わざと置いていくなど」
問われた曹植は軽く驚いたように妻を見返し、やや口ごもってつづけた。
「そなたに会う理由になるだろうと思ったからだ。
俺にとってのあの玉環の重みをそなたは知っているから、第三者を介するのでなく、自分の手で返してくれるだろうと思った」
「―――会って、どうなさりたかったのです」
「自分でも分からん。
ふたたび求婚しても困らせるだけだろうと思っていたから、そのためではない。
ただ、もういちど会って―――ひとめ見て、ひとこと交わしたかった」
そこまで言って、曹植は視線を落とした。
「そなたが他の男のものになる前に」
崔氏もまた、彼とは違う方向に目をそらした。
顔が熱くなっていた。
「だから、俺が戻ったときにそなたがああしていたのを見て、ことばに表せない気持ちになった」
そこまでいうと曹植は、ふと説明を放棄したかのように、両腕をひらいて崔氏の身体を抱きすくめた。
そしてそのまま、白い首筋から肩へ背中へと絹糸のように滑り落ちる妻の黒髪に、軽く顔をうずめた。
「娶ると、朝からこういうことができていいな」
何をおっしゃっているのかこのかたは、と崔氏は心中で逆上しかけたが、実際に口から発せられたのは、自分でもかろうじて聞き取れる程度のかぼそい声だった。
「こんな、―――朝からこんなことをする夫婦はおりません」
「いやか」
「―――――――――――――いやでは、ないですけれど」
これまで以上に目元を赤く染めながら、崔氏もまた、彼の背中にためらいがちに手を回した。
ふいに、金瓠が火のついたように泣き始めた。
崔氏はたちまち夫を押しのけて立ち上がり、むすめが横たわる小さな牀をのぞきこみに行った。
曹植のほうは、きつく眉をしかめながら両のこめかみを押さえている。
「強烈だ。赤子の泣き声というのはこれほどまでに響くものか」
「節度なくお酒を飲まれるかたには、そうかもしれません」
言いながら崔氏はむすめを抱き上げ、泣いた原因を探ろうとしたが、その前に、
「お父さまに行ってらっしゃいをしましょうね」
と金瓠の手を取り、父親のほうに向けさせた。
「わかった。行ってくる」
曹植は早くも憔悴した顔で、戸口に向かって歩き始めた。
その背中を見送りながら、崔氏は泣き続ける赤子をなだめるように唇を寄せ、そなたもお父さまに行ってほしくないのね、とつぶやいた。