(十一)問い
妻の肩の震えがようやく収まったころ、曹植は彼女の膝から赤子を抱き上げた。
そのまま閨を歩き回ってあやすおつもりだろうかと、崔氏は赤くなった目でぼんやりと思った。
だが彼は遠くへはいかず、眠っているむすめの身体を嬰児用の牀にそっと寝かせた。
そして夫婦の牀に戻り、妻の傍らにふたたび腰を下ろした。
ふたりともしばらく何も言わなかった。
曙光が空に広がってゆく直前の、青い薄闇が閨のなかを満たしている。
「俺も、言っていなかったことがある」
崔氏がゆっくり顔を上げた。まだ彼のほうは見なかった。
「清河にいたとき、―――そなたの実家に世話になっていたとき、あの房で、昼下がりによく寝たふりをしていた」
「寝たふり」
「寝たふりというか、寝るときはたしかに寝ていたのだが、目が覚めてもすぐに身を起こさずに、そのままにしていることがあった」
「なぜです」
「俺がまだ寝ていると思っているときの、そなたをみていた」
「―――」
「趣味がよくないと分かっていたから、いわなかった」
「まことに、悪趣味です。それは窃視というものです」
曹植は妻のほうに目をやった。
白い横顔は唇をひき結んでいるようにみえたが、声は冷ややかではなかった。
「最初からそういうつもりだったわけではなく、―――あるとき、いつもより早く目が覚めると、たまたまそなたが房内に入ってきた。
起こしてほしいと頼んでいた時間よりまだ少し早かったから、俺のいるほうには近づかず、片付けなどをしていた」
そう、と崔氏はうなずいた。
「何も目立ったことをしていたわけではないが、俺が起きているときと同じように挙措や物腰が端正で、―――最初に逢ったときの印象とも同じだった」
「印象」
「清冽な、よく己を律するむすめだと」
崔氏は何も言わなかった。
「毎日というわけではないが、何度かそうやっているうちに、こんな日常もよいものだと思った」
「こんな、とは」
「琴瑟と書物のみを友として、そなたの静かな佇まいをみながら送る日常だ」
崔氏はしばらく何も言わず、塑像のように動かなかった。
ようやく口をひらくと、平淡な口調で言った。
「―――あのときのご滞在は十日間程度でしたから、そのような夢想も起こりえたかもしれません。
ですが、ひと月もつづけば、子建さまはたちまちそんな暮らしに飽きられたことと思います」
「そうかもしれん。
いや、たぶん、そのとおりだ。
俺は鄴の喧しさが好きだ。市中の熱気が好きだ。友人や兄弟との宴席が好きだ。
だからそなたを、鄴に連れて帰れたらなと思った」
曹植はしばしことばを切った。沈思のような間があった。
「家の外には賑わいがあり、家の内には静けさがある。それがよいではないかと。
だから、そなたから好かれたと知ったときは、迷いなく娶ろうと思った。だが」
曹植は自分の膝に置いた手をみた。
「やはりまちがいだったのかもしれないと思うことがある」
「まちがい」
「そなたは俺の、―――義姉上への感情のことを、元仲の吃音と同じだと、自分では変えられないものだから仕方がないと言ったが、俺には実のところ選択肢はあった。
そこは、元仲と違っている」
崔氏は黙っていた。彼女もまた、自分の膝に置いた手をじっとみている。
「いや、義姉上への感情そのものは、俺にはどうにもできない、それはそうだ。
だが、それをどうにもできないならば、―――妻を娶るときは、俺に何の情愛も抱いていない、これからも抱きそうにないむすめを娶るべきだった。
そうしなかったから、そなたを今、傷つけている」
ふたたび長い沈黙が落ちた。
「いまおっしゃったことは、本当です」
崔氏がようやく口をひらき、膝の上の手を丸く握った。
「子建さまは、何でも手に入れようとしすぎです」
「たしかに、そのとおりだ。
俺は、自分のことを、―――青史に大書されるほど好色な男だとは思わないが、気が多いほうだと思う」
「気が多いほうではなくて、気が多いのです」
「返す言葉もない」
「でも」
今度は崔氏が間を置き、そしてつづけた。
「でも、そうでなければ、わたくしがここにいることはなかった」
曹植は妻のほうをみた。
まだうつむいて手を丸く握りしめていたが、目元が少し染まっている。
「ときどきは、こうして思いがけないことで傷つきますが、嫁いできたことを、後悔はしておりません。
だから、―――子建さまがもうひとつの選択をなさらなくて、よかったと思っております」
崔氏が顔を反対側に少しそらしたのが曹植にもわかった。
彼は初めて自分の膝から手を離し、妻の膝の上の白い手を握った。
「厚顔なことをいうが、―――俺も、そう思っている。
そなたを娶らなかった人生は、今では考えられない」
それは、たとえ義姉上さまが未亡人になられようと、義兄上さまの喪が明けようと、子建さまには義姉上さまを娶るという道が未来永劫にないからではございませんか。
皮肉ではなく真摯な思いで、崔氏はそう問いただしたくなった。
いちどでも兄の妻になった婦人を弟が娶るというのは、華夏の地ではむろん、禽獣にも等しいとされる所業である。
崔氏にとっての義父である曹操が人妻を好んで奪い次々に妾として納れるのも、世人からは決して芳しい素行と見なされてはいないが、彼の息子たる兄と弟がひとりの婦人を相次いで娶るなどという醜行はその比ではない。
甄氏は実父とは早くに死別しており、兄弟に有力者もいないので、仮に曹丕に先立たれて寡婦になった場合、彼女の進退を決する権限をもつのは義父曹操になるだろう。
匈奴から身柄を買い戻された蔡文姫こと蔡琰がちょうどそうだったように、曹操の采配によって寡婦甄氏が他家の男に再嫁させられる――曹叡を連れてゆくことは許されぬだろうが――ことはありうる。
しかし、たとえ曹操が曹植の密かな思慕を知悉していたとしても、甄氏を曹植に嫁がせることだけは絶対にない。
曹操はこれまでもたびたび、天下に広く賢才を求める令を発してきた。
なかでも、直近で公布した建安十五年の令では、「兄の妻と密通し、賄賂も受け取った」という噂がありつつも漢の高祖劉邦に見いだされ、その偉業を助けた軍師陳平の例を挙げている。
徳行ではなく才能本位で人材をとりたてる、ということを曹操は明言してきたわけだが、その方針をそのまま子息たちに適用することはできない。
曹操の幕僚のなかでも儒教的な徳行をとりわけ重んじる士人たちは、自ら修養に努め清廉を極めるがゆえに、丞相府内でも衆望を集める存在である。
その彼らの支持を即時に失うようなあからさまな礼教違反を―――上の息子の妻を下の息子に妻として与え直すような愚行を、曹操がわざわざやってのけることは考え難い。
曹丕が早くに没すれば曹植が最も有力な継嗣候補になるのだから、なおのこと曹操は、曹植の一身に名士たちの信頼をつなぎとめなければならない。
この先何が起ころうとも、最愛の婦人を正式に娶るという選択肢は、もとより曹植にはないのだ。
(だから子建さまは、わたしという妻に満足しようと、努めなくてはならないのだ)
だが、崔氏はむろん、その思いを口にすることはしなかった。
あえて口にしても夫を困らせるだけで、自分の惨めさがいっそう深まるだけだ。
ふと、どんな力が働いたのか、自分でも分からなかった。
崔氏は初めて顔を上げ、曹植のほうをみた。
「わたしは、子建さまが好きです」
「―――知っている」
「子建さまはわたしを、好きですか」
口に出してしまってから、ほとんど子どもじみた問いを発したことに気づく。
だがそれを恥ずかしいと思うより先に、ただ答えを聞きたかった。