(十)破約
入室してきた曹植は、湯浴みを済ませた直後らしかった。
酒の匂いもほとんど薄らいでいる。
洗い髪が乾ききっていないためか、後頭部に髻をつくるのではなく髪をゆるく束ねて紐で縛り、背中に流していた。
大体において身なりを構わない彼は、自邸にいるかぎりしばしば髪型も適当なら、髪をくくる紐さえ適当に目についたものを使う。
今回は、簡牘を縛る紐を流用しているかのようにみえた。
崔氏にそれが分かったのは、曹植は直接牀に歩み寄ってくるのではなく、半開きの窓のほうにまず向かい、こちらに後頭部と背を向けたまま黎明の空を眺めていたからである。
だがまもなく、彼は窓際を離れ、夫婦の牀に向かってきた。
そしてむすめを抱く妻の隣に座った。
ふたりとも、互いの顔はみなかった。
「眠らなかったのか」
「眠れなかったので」
短い沈黙が落ちた。が、やがて曹植は腹を決めたように言った。
「昨夜のことは、悪かったと思っている」
「何についてでしょうか」
「つまり、その―――」
言わんとすることは決めていたのだろうが、彼は今さらのように口ごもった。
そのためらいを見越したかのように、崔氏は静かにあとをつづけた。
「―――お酒のために記憶が途切れていらっしゃるかもしれませんが、子建さまは暴言や暴力をふるったりなど、決してなさいませんでした。
それに、わたくしがお部屋に上がりましたのは、許可もいただかずに勝手になしたことです」
曹植は口を開きかけたが、すぐに閉ざしてそのまま固まった。
崔氏は、自分がにべもない言い方をしてしまったかのように感じ、後を補った。
「すべて承知したうえで、嫁いでまいりましたので」
「―――」
「元仲(曹叡)さまの吃音と同様のものだと、思っております」
「何のことだ」
「ご自分の意志ではどうにもできない、―――無理に治そうとすれば、もっと取り返しがつかなくなる恐れがあるものだと」
曹植は何も言わなかった。
しばらく身動きしないでいるかと思うと、おもむろに袖から何かを取り出した。
鴛鴦紋様の手巾であることは、そちらをみなくても崔氏には分かった。
「これは返す」
「なぜですか」
「こちらが訊きたい。なぜ俺によこした。そなたのために贈られたものだろう。
そもそも、女物だ」
崔氏は答えなかった。
昨晩の、自分の行動の意味が分かった気がした。
俺には必要ないからだ、と言ってほしかったのだと思った。
だが彼は、そうは言わなかった。
「元仲さまに申し上げたとおり、今日、いえもう昨日ですが、昨日初めておろしたのです。
まだいちども洗っておりません」
「だから何なのだ」
「義姉上さまの指先が、直接触れたままです」
「そなたのそういうところが、全く理解できない」
夫の声には本物の苛立ちが混じっているようでもあった。
「だからどうしたというのだ」
「義姉上さまの余香も、折り目の端々にとどまっているやもしれません」
「香りだとか、そんなものはない。―――いや、わざわざ嗅いだわけではない」
曹植はそう言ってから、実に言わなくていいことを言ってしまったと言いたげな、こわばりついた顔になった。
妻の沈黙に耐えかねたように、小さな声でつづけた。
「―――少しも嗅がなかった、というわけではない」
そう、と崔氏はうなずいた。
膝上のむすめの寝顔から目を離さないでいる。
曹植は取り出した手巾を持て余すかのように見つめていたが、やがて妻の片袖に手を触れ、その袖口の中に手巾を入れた。
「とにかく、返す」
「わかりました」
「俺が悪かったというのは、約束を守れていないからだ」
「約束」
「そなたを大切にすると誓って娶ったし、金瓠が生まれた後も、大切にすると言った。
だが、実際にはそうできていない。
おろそかにするつもりはなかったが、そなたは、―――おろそかにされていると感じているのでないかと」
「おろそかにするつもりはないという子建さまのお気持ちは、よく存じております。
誠に、ありがたいことです」
「夫婦だろう、他人行儀な言い方はよせ」
「けれど、昨晩の子建さまのお気持ちも、よく分かるのです」
「何が言いたい」
「―――これまで申し上げておりませんでしたが、わたくしは嫁ぐ前に」
崔氏は少しことばを切った。
言うべきではないかもしれない、という気持ちがよぎった。
しかしやはり、伝えるべきだと思った。
「男のかたと同衾したことがあります」
曹植は初めて顔を妻の方に向けた。
意味を取れなかったかのように、白い横顔をしばらく凝視している。
「――――――ああああぁ!?」
ようやく呪縛がとけたかのように、彼は勢いをつけて立ち上がった。
崔氏の顔を見下ろすが、彼女はうつむいたまま赤子から目を離さない。
お静かに、と妻はたしなめたようであった。
とはいえ、金瓠は穏やかに眠りつづけている。
「いや、待て。そんなわけがあるか」
自分に言い聞かせるかのように、と同時に、大声を出したことでようやく我が身を襲ってきた二日酔いの痛みに耐えるかのように、曹植はこめかみに手を当てている。
「そうだ、おかしいだろう。そんなはずはない。
だいたい、華燭の晩、そなたはたしかに―――」
そこまで言って、さすがに露骨に過ぎると思ったのか、自分で自分に顔をしかめた。
だが、動揺はまったく収まっていない。
「わかった。つまり、従弟が幼いときに寝かしつけてやったとか、そういう話ではないのか」
そうは言ったものの、彼は妻がこの種のことを冗談にする女だとは、自分でも思っていない。
「いいえ。血のつながらないかたです。
最後までは、至っておりません」
「最後までは、―――」
妻のことばを繰り返しながら、曹植の顔からはかえって血の気が引き、青くなっていった。
「どこまでなら至ったというのだ。何をされた」
どこの馬の骨であれ殺してやる、と言わんばかりの勢いを込めて、彼はとうとう声を荒げた。
「衾のなかに引き込まれて、―――平原侯さまとお呼びかけすると、子建と呼んでほしい、とおっしゃいました」
曹植はあっけにとられたように、妻を見下ろしていた。
「清河でのことか」
「はい」
「まったくおぼえがない」
「よくお眠りになっておいででした」
「就寝中のことか。
いやしかし、いくら俺でも、寝ぼけていたとしても、他家の女子にいきなりそんな狼藉をはたらくものだろうか」
「三月上巳の日、禊から帰ったあとの、昼下がりのことです。
わたくしは、衣に椒の香りをまとっておりました」
「あ、―――」
「椒香のもつ意味を、あのときは知らなかったので―――抱きしめられたことが、うれしかったです」
崔氏の声が初めてかすれた。
「とても驚いて、緊張したけれど、―――字で呼ぶのを許してくださって、子建さまもわたくしと同じ気持ちで、子建さまがわたくしを求めてくださったのだと思って、うれしかったです」
夫にというよりは膝上の赤子に語りかけるかのように、崔氏はつづけた。
「だから、子建さまの、昨晩のお気持ちがよくわかるのです。
思い焦がれた相手と心が通じ合ったと―――そう信じられたときの、望外の喜びが」
平静を装ってきた声が、とうとう大きく震え、薄氷のように砕けた。
金瓠の身体をくるむ布に、大粒の雫がひとつふたつこぼれ落ち、染みが静かに広がっていった。
赤子は気づくふうもなく眠っている。
曹植は黙って立ち尽くしている。