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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
135/166

(九)帛書

 静寂は(ねや)のなかだけではなく、窓の外でもずいぶん長くつづいていた。

 曹植は今夜はもう琴を弾かないのだろう。


 崔氏は少し迷ってから、結局立ち上がって金瓠を嬰児用の(ねどこ)に寝かせ、閨の戸の外に控える宿直の侍女を呼んだ。

 少しの間だけ赤子をみてくれるように頼むと、壁際に広げて掛けられた夫の上衣の一着をとり、腕に抱くようにして廊下に出て行った。


 着いた先の書房の前にはやはり宿直の従僕がいたが、夫人の来訪を知って拝礼した。


「侯は、ご就寝かと」


「そのようですね。中に入って確かめましたか」


「いえ、人払いを命じられましたので。

 酒瓶だけ、何回か新しく運び入れるようにお命じになりました」


 そう、と崔氏はうなずいた。これも予想していたことではあった。


「入ります」


 従僕は恭しく頭を下げて戸をひらいた。

 奥方じきじきのお出ましであれば、明日彼が主人から叱られることはないだろう。






 書房の燭台には、まだいくらか灯が残っていた。

 窓の近くの床には琴が置かれたままになっており、美しく彩色されたその本体や弦の端々には、灯火の明かりがかすかに躍っていた。


 戸口からみて琴よりも手前に卓があり、果たして、曹植は卓の上に突っ伏すように眠っていた。

 卓上の肴にはあまり手が付けられておらず、いくつもの酒瓶と杯だけが空になって並んでいる。


 近日では珍しいくらいの酒量であった。

 座の脇には、すでに紐解かれていたり巻いたままだったりする書物が散乱していた。

 この房の四方の壁を埋める書架から取り出してきたものであろう。


(筆を執られたわけではないのだろうか)


と崔氏は思ったが、よくみれば卓の一隅には硯と筆があり、硯のなかの墨もまだ完全には乾いていなかった。

 しかし、書き物用の木簡はまだ無地のままひとつふたつ重ねられている。


 結局何もお書きにならなかったのかもしれない、と崔氏が納得しようとしたとき、ふいに、卓に伏せている夫の頭の下敷きになっているものに気がついた。

 灯火に照り映え光沢に満ちたそれは、質朴な木簡や竹簡ではなく、なめらかな白い(きぬ)であった。

 指を触れなくとも上質であることが分かる、貴人同士が書簡にもちいるたぐいの素材である。


 夫の頭部と肩が障壁になっているため、何が書いてあるのかはわからない。

 あるいは何も書いていないのかもしれない。

 崔氏はその帛の端を指でつまみかけ、すぐにやめた。


 本来の目的を果たそうと思い、持参してきた上衣を夫の背中にそっと掛けた。

 そして立ち上がると、極力足音を控えながら窓を閉めに行った。

 月光はもとより差し込んでいないので、窓を閉めても房の明るさはさほど変わらない。


 また夫の座のほうへ戻ると、床に投げ出された形の書物をひもで巻き直し、空いている近くの几の上に積み直した。

 そのとき小さな音をたてたためか、曹植がふと頭をもたげ、妻のいるほうに視線を泳がせたかにみえたが、別に覚醒したわけでもなく、すぐにまた同じ姿勢で、左の頬を下にして突っ伏してしまった。


 崔氏はやや驚いたものの、目を奪われたのは夫の寝起きに対してではなかった。

 曹植が頭をもたげて上体を起こしたそのとき、卓上に広がる帛の全体が目に飛び込んできたのだった。

 帛にはおそらく数行の文字が書かれ、そしてそれはすべて塗りつぶされていた。


 崔氏は無言で夫のかたわらに戻り、膝をついた。

 数種類にのぼるであろう酒の匂いが鼻をついたが、当人は最後には心地よく酩酊(めいてい)できたのかもしれない。


 人の子の親になったというには、ずいぶん幼い感じの寝顔だった。

 崔氏はしばらくその顔を眺めていたが、やがて自らの袖に手を入れて、鴛鴦(えんおう)紋様の手巾を取り出した。


 黄色い灯火のもとでは、本来の布地の色よりも暖色がまさってみえた。

 もともと畳んであるそれを崔氏はもういちど畳み直し、夫の顔のすぐ近くに置いた。

 そして先ほど夫の背中に掛けた上衣をもういちど整えると、立ち上がって戸口へ向かった。

 戸をいくらか開けて廊下の明かりを少し導き入れてから、燭台の残り火を消しに戻り、それからこの房を後にした。






 閨へ戻ったときも、金瓠はまだおとなしく眠っていた。

 見守ってくれていた侍女に礼を言って本来の持ち場に帰らせると、崔氏は嬰児用の牀のかたわらに立ち、横たわるむすめの顔を覗き込んだ。


 曹植のいうとおり、目鼻立ちは全体として自分のほうに似ている気がするが、まぶたのあたりはやはり父親に似ている気がした。

 いつか赤ん坊でなくなっても、この子の寝顔をずっと見ていたい、という気がした。






 しばらくすると金瓠が目を覚まし、むずかりはじめたので、ようすをみながら襁褓(むつき)のとりかえをし、少し後に授乳をした。

 眠気はまだ訪れないものの、身体はようやく疲労を感じていた。

 乳飲み子の世話をひとりでこなすのはこれほど難儀なことなのだ、といまさらながら実感した。


 使用人をいくらでも抱えられる貴人や富豪の家でなくとも、清河にある崔氏の実家のように、宗族同士で固まって暮らしている家門であれば、母親がひとりきりで赤子の世話をしなければならない状況というのはめったに生じない。


 出産の前後に実家に戻ったりはできない代わり、夫の母であれ(あによめ)であれ叔母であれ姪であれ、夫方の親族女性たちが常に身辺に出入りして、何らかの手助けをしてくれるからだ。

 清河にいるときの十代の崔氏が赤子の世話に慣れていったのも、そうやって同族の婦人たちを何度も手伝ったからであった。


 ゆえに、ひとりきりで育児に疲弊させられる婦人というものを崔氏は実際にみたことがなかったが、今回自分で体験してみて、その苦労の片鱗を初めて思い知ったのであった。


 だが、同じようなことを繰り返しているうちに時間はすぐに流れてゆき、いつのまにか明け方が近づいていた。

 赤子はふたたび眠りに落ちている。






 疲れたとは思いながらも、崔氏にはなお眠気がこなかった。

 膝の上でむすめの身体を小さく揺らしていると、戸口から侍女の声が聞こえた。


「侯がおいでになりました」


 そう、と思ったが、拒める理由もないので、「お入りいただいて」と答えた。


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