(八)雒嬪
屋内へ戻った後の曹植は、夕食はとらないと言った。
後で簡単な酒肴を運ばせるようにと言い残して、自らの書房に向かっていった。
予想していたことだったので、崔氏もそれ以上尋ねなかった。
彼女も食べられる気はしなかった。
だが金瓠には乳母だけでなく自分でも乳を含ませているので、食事を抜くべきではないと思った。
本来の品数と分量は不要であることを厨房に伝えてごく簡単に夕食を済ませ、沐浴も済ませると、乳母と子守女が赤子を見守る閨へ足を運び、今夜は自分がこの子をみると伝えた。
何か没頭できることが必要だった。
身体を拭いたり着付けたり、髪を梳いたり下の世話をしたりするのは、むすめが生まれてからむろん毎日何度も経験してきたことだが、自分の手だけですべておこなうのはおそらく初めてだった。
結婚前、清河の崔氏宗家にいたときは、族母たちに赤子が生まれるたびに、授乳以外のことは何かしら手伝い、時には一人で子守を頼まれることもあったので、妙になつかしい感じでもあった。
今日の金瓠は昼間によくむずかったためか、夜になってからはわりとおとなしかった。
むすめの表情のひとつひとつを目で追っていると心が休まった。
今夜一晩といわず、明日の日中に耐えがたい眠気に襲われるまで専らむすめの世話をし、それから乳母たちに代わってもらおうと思った。
人の妻となった者は常であれば毎朝夫の母のもとへ伺候する定めだが、いまは卞氏が鄴にいないので、夫を勤めへ送り出してしまえばあとは自由だった。
このときばかりはそれをありがたいと思った。
今日何回めかの授乳が終わると、金瓠はすぐに眠りにおちていった。
乳母の房から今夜だけ運び入れた赤子のための小さな牀は、夫婦の牀のすぐかたわらに置いてあるが、崔氏は金瓠をそちらに運ばず、夫婦の牀に腰かけたまま、満ち足りたような表情のむすめを膝上に寝かせていた。
閨の窓は半ばひらいており、清涼な夜気がそこかしこに忍んでいる。
夫とともに仲秋の名月を愛でたのはそれほど前のことではないが、今夜の空は曇りがちであった。
窓の向こうから、かすかに琴の音が聞こえてきた。
あるいは廊下を伝ってかもしれないが、どちらでもあまり違いはない。
曹植が書房で琴を弾じているのだ。
乱世とはいえ権門の御曹司として育ってきただけのことはあり、幼いころから専門の師に就いて学び、かつ音楽をこよなく愛する父からも手ずから教えられてきた彼の奏法は、基礎がしっかりしており見事なものである。
「お父さまが、琴を弾いていらっしゃるわ」
崔氏は金瓠に語りかけた。
膝上の赤子はすでに眠りに落ち、琴の音にも母の声にも目立った反応を示さない。
崔氏はむすめの丸々とした手をとり、小さな指をひとつひとつなぞった。
「そなたが大きくなったら、琴を教えていただきましょうね。
お父さまの子だから、きっとすぐに上手になるわ。
お母さまは、瑟を教えてあげますからね。
お母さまの実家ではみなが弾いているから、そなたも弾けるようになってくれたら―――」
崔氏はふと顔をあげた。琴の曲調が変じている。
それはいいが、しだいしだいに性急になる音の運びは技巧的というよりも、何か切迫した、悲壮なものを思わせた。
弦が切れたりはしないだろうか、と聴者に危惧を抱かせるほどの激しい高ぶりを中空に響きわたらせ、それがしばらくつづいたかと思うと、琴の音は唐突に止んだ。
崔氏は黙ってそれを聴いていた。
琴の乱調のせいか分からないが、金瓠がふと目を開けた。
だがまだ起きる気はないようで、まどろみのなかに留まっている。
「今夜は、お月さまが見られないわね」
窓の外を見ながら、崔氏はふたたび語りかけた。
「話したことがあったかしら。月には仙女さまが住んでいるのだそうよ。
嫦娥という名前の」
むすめの顔に目を落とすと、やはり、眠りと覚醒の境目にいるようにみえる。
それでもじきに寝入るだろうということはわかった。
「嫦娥には羿という夫君がいて、ふたりはもともと、地上で仲良く暮らしていました。
羿は弓の名手で、どれほど遠くからでも的を射ることができました。
聖天子の堯が天下を治めていらっしゃったとても古い時代、太陽は十もあって、彼らは毎日代わる代わる空に出て地上を照らしていました。
ところが、どういうわけか、あるとき十の太陽がいちどに空に昇ってしまいました。
地上は大変な暑さに見舞われて、作物も生き物も死に絶えそうになりましたが、羿はそのうち九つを射落として、地上の人々を耐え難い苦しみから救いました。
こうして人々から尊敬された羿は、西王母という偉い仙女さまから、不死の薬をいただくことができました。
羿はそれをすぐには服さずに、家に帰って大切にしまっておきました。
妻の嫦娥はあるときそれを見つけ、あろうことか、ひとりで服してしまいました。
すると嫦娥の身体は軽くなり、窓から宙に飛び立って、とうとう月に至りました。
嫦娥はいまでも、月の宮殿に暮らしているのです」
崔氏がことばを切ると、閨の静寂が濃くなった。
気がつけば、灯火がだいぶ弱くなってきていた。
壁際の燭台に据えられたいくつもの灯盞のうち、火を残しているのはふたつみっつほどである。
「ふしぎな話ね。嫦娥はどうしてそんなことをしたのかしら。
気が遠くなるほどの歳月をずっと、ひとりで暮らすことになるのは分かっているのに」
金瓠はむろん答えない。
母の膝の上で、安らかな寝息をたてている。
「お母さまはずっとふしぎに思っていたのだけど、あるとき別のひとの話を読んで、考えが少し変わりました。
そのひとは、屈原はこう書いています。
羿は太陽を射落とした英雄でしたが、あるとき河伯の―――黄河の神さまのお妃を好きになってしまいました。
お妃は雒嬪(洛嬪)という名前で、洛水の女神でした。
そのお妃を手に入れるために、羿はとうとう、河伯を射殺してしまったのです」
崔氏はふたたび沈黙を置いた。
灯盞の火がまたひとつ消えたようだった。
「羿が不死の薬を飲めなかったのは、このことの罰なのかしら。
一方で、河伯が人間を溺れさせて苦しめていたので、羿は河伯を殺して人々を救ったともいわれている。
だったら、妻を奪ったことくらいは許されるのかしら。
天の采配は、不思議なことばかりね。
でも、お母さまにもひとつ、分かったことがあります。
嫦娥はきっと、追いかけてもらいたかったのね。
すでに不死の薬が空になった今、羿がどんな手を尽くしてでも、西王母から新しい薬を奪ってでも、後を追ってきてくれるかどうか、―――雒嬪をあきらめて自分を選んでくれるかどうか、それをみたかったのでしょう。
でも、ふたりがふたたび一緒になることはなかった」
かわいそうにね、と崔氏はひとりごち、金瓠の産毛を軽くなぞった。
どちらに向けた憐憫なのか、自分でもよく分からなかった。
「これは、内緒だけれど―――」
崔氏は人差し指の先をむすめの唇にそっと置き、その姿勢のままじっと見下ろしていた。
「お母さまもときどき、月に昇りたくなることがある」
長い沈黙の後でそうつぶやき、崔氏は窓の外を振り仰いだ。
雲はまだ晴れておらず、月光の片鱗もみえなかった。