(七)画賛
「こちらの手巾は今日、初めておろしましたの。
それなのに、つい、いつもの使い慣れたもののように使ってしまって……
義姉上さまに申し訳ないことをいたしました」
一瞬の回想のあと、崔氏が曹叡に向かって告げたその思いは本当だった。
意識していなかったとはいえ、甄氏が手ずから織ってくれた手巾を土埃をはらうために使ってしまったことに、その息子が悲しみをおぼえたのではないかと崔氏は懸念したが、杞憂であった。
「いえ、ありがとうございます。
父上からも、これは練習用だが大事に使えと言われたのに、僕が手荒に扱ってしまったから」
実に聞き分けの良い子どもの声でそう言うと、曹叡は叔母の手から弓を受け取った。
たしかに練習用にしては凝った彫琢がほどこされ、見た目にも華やかなものだった。
曹植も人前で射技を披露するときはそれなりに見栄えのする弓を携えるが、ふだん練習で使うのは無地の素朴なものであり、曹叡の手にあるものとは対照的である。
お父上のご意向なのであろう、と崔氏は思った。
曹丕は自身の装束や持ち物にひとかたならぬこだわりがあることは、親族の間でもよく知られている。
「突然地面に放ったりして、叔母上も驚かれましたでしょう。
申し訳ありませんでした。次からはちゃんと扱います」
「丈夫なつくりですから、一度や二度落としてもゆがんだりはしないはずですわ。
ですが、どうぞ気を付けてお持ち帰りくださいませ」
素直にうなずいた曹叡は帰り支度を始めようとした。
崔氏はほとんど汚れてもいない手巾をよく手で払ったうえで畳もうとしたが、なめらかな絹布は思いがけず指をすべり抜け、宙に舞った。
(―――あ)
崔氏が驚いて目を見張るより先に、そちらへ駆け出してゆく影があった。
それほど強い風が吹いたわけではないので、手巾はまだ射場の内にとどまっている。
追いついてしまえば、下降してきたところを掴まえるのはそれほど難しいことではなかった。
ただし手巾を掴んだその人影、つまり曹植は、勤務中に閲兵する時などと違い既に戎装を解いているので、文官同様のゆったりした下衣は明らかに運動に適していなかった。
追いつくまでにかなり無理をして走ったとみえる。
戻ってきた彼はたしかに少し息が上がっていた。
「―――わたくしの不注意のために、申し訳ございませんでした。
ありがとうございます」
「いや、―――だが、いただいたものだ。気をつけたほうがいい」
そう言って曹植は手巾を妻に返したが、その直前に一瞬だけ間が置かれた、かもしれなかった。
ためらいではない、と崔氏は思おうとした。
「叔父上、ありがとうございます」
「ああ、うん」
曹叡から元気よく向けられた感謝のことばに曹植は短く返したものの、甥のほうも妻のほうも見ずに、射場から邸の正門および停車場へと通じる通路のほうへ歩きはじめた。
曹叡をこのまま帰らせるつもりであろう。
曹叡と崔氏はその背中に従い、曹叡が連れてきた従者たちも距離を保ちながら従った。
ことば少なになった夫の代わりを務めるかのように、崔氏は甥にできるだけ話しかけようとした。
「元仲さまは射術以外にも、武芸を何か始めておいでですか」
「剣術です。父上が師匠を選んでくださって、毎朝練習しています」
「まあ、父上さまもたいそうご高名ですものね。
お若いころからたくさんの名手に習ってこられたとか。
元仲さまにも期待をかけておられるのでしょう」
「はい。父上も、僕は射術に比べれば剣術の筋はよいとおっしゃいました」
西日のせいかもしれないが、心なしか曹叡の頬が上気していた。
父親から肯定してもらえる才技について話すときの彼は口舌もなめらかになり、明朗さも増したかのようだった。
崔氏は生家では同世代のうちで最も年長なので、小さい族弟や族妹が自分の好きなものについて延々話したがるのには慣れている。
どこにでもいる九歳の男児相応に生き生きと手ぶりを交えながら話す少年のようすを見るのはうれしかったが、しかし彼はおそらく、父親から肯定してもらえる局面が限られているのだ―――だからこそ、ひとつでも褒められた記憶があればこれほど幸せそうに打ち明けるのだという事実のほうに、彼女は胸の痛みをおぼえた。
何とか励ましてあげたい、と思った。
「元仲さまはお小さいころからお祖父さまや父上さまの薫陶を受けておられますから、きっと、文章のほうでも上達がお早いでしょう。
詩賦はお好きですか」
「はい。―――まだ、自分では作れませんが。
読むのは好きです。朝夕に暗誦もします」
「ご立派でいらっしゃいます」
そういえば義兄の家でも『詩経』といえばまずは韓詩を学ばせるのだろうか、と崔氏がふと思ったときに、
「そうだ、叔父上」
やや唐突に、前を歩く曹植に曹叡が声をかけた。
曹植は歩みを緩め、こちらを一瞥した。
「叔父上の書き下ろされた作品を、父上はいつも書き写して手許に置かれています」
「そうか、ありがたいな」
曹丕と曹植の兄弟が詩賦を応酬しあうのは常のことである。
曹叡が告げた内容自体は目新しくはないはずだが、曹植は大人らしく笑顔を向けた。
そろそろ正門の近くにさしかかっている。
足元はそこまで暗くないが、門衛たちは篝火の準備をしていた。
「今回の出征に加わられる前、父上に」
「うん」
「詩賦の句が自然に浮かぶようになるにはどうしたらよいのですか、とお尋ねしたことがあります」
「そうしたら、何と」
「とにかくたくさん読むしかないと。
子建叔父上を見習って、子どものうちはもちろんのこと、大人になってもずっと書物を手から放さぬように、とおっしゃいました」
「光栄な話だ。兄上も、俺の目の前で俺を絶賛なさればよいものを」
曹叡は声を立てて笑った。崔氏も思わず袖で口元を押さえた。
彼女が知る限り、曹植に面と向かうときの曹丕は、たいてい渋い顔か苦い顔しかしないのである。
三人はすでに、門の内側の広場に至っていた。
もともと彼らの後についていた従者たちはいつのまにか先回りしており、曹叡が乗って来た車にはすでに馬がつけられていた。
「気をつけて帰れよ」
「母上もです」
車に乗り込む直前、快活な口調のまま、曹叡がつづけた。
曹植は面食らったように、ぱちぱちと目を瞬いた。
「母上も、叔父上の作品がお好きです」
「兄上が、―――そなたの父上が、読めと言ってお渡しになるのか」
「そうではなく、―――父上と母上は、ふだんの会話自体が少ないので」
幼い声から少しだけ、弾みが失われた。しかしすぐに元の調子に戻った。
「侍女たちが、宮中や市中などから人づてに入手してくるのを、母上は待っておられるのです」
彼のいう宮中はむろん、昨年鄴に落成したばかりの魏公の宮殿のことである。
「最近では、叔父上の『画賛』を読んでおられて、とくに「姜嫄簡狄賛」「班婕妤賛」を書き写しておられました。
妹と一緒に読めるように。
妹にはまだ難しいけど、母上が分かりやすく説いておられます」
「そう、なのか」
曹植の声は昂揚するよりもむしろ、別人のように平板になっていた。
あたかも、受け止めきれないものに押しつぶされたかのようであった。
魏公の宮殿の中核をなす大殿を聴政殿という。
その後方に鳴鶴堂という建築があるが、それら殿と堂との間には東西二坊が配され、その中央に温室がある。
曹叡のいう『画賛』とは、その温室の壁面に掛けられた古来の偉人たちの図像に対し、曹植がそれぞれ撰した賛(論評文)のことである。
曹操は例によって三男の作品を大いに気に入り、書家に揮毫させたそれぞれの賛を図像に付して展示するように取り計らったという。
たとえ曹家の人間でも婦人はその区画まで入っていけないので、崔氏はみずから目にしたわけではないが、夫からだけでなく叔父崔琰からもそのように聞いている。
図像に描かれた偉人たちは古くは庖犠(伏羲)や女媧、新しいほうでは漢朝の帝王もいる。
そのなかで殷周の祖の母親とされる簡狄や姜嫄、そして前漢末の女官班婕妤を甄夫人がわざわざ選んだのは、古くから讃えられてきた彼女たちの母儀や婦徳の崇高さに敬意を示すとともに、むすめに語り伝えて模範にさせようという意図であることはいうまでもない。
だが、いまの曹植には、そのあたりのことまで考える余裕はないだろう。
義姉が自分の作品を待ち望み、目を通しているという事実に圧倒されているかのようだった。
少なくとも傍らに立つ崔氏には、そうみえた。
叔父夫妻に丁重に礼を捧げてから、曹叡は従者の介添えを受けて車上のひととなった。
ことばを失ったかのように立ち尽くす夫に代わり、崔氏は最後に声をかけた。
「暗いので、どうかお気をつけて」
「すぐそこですから」
少年の快活さは失われていなかった。
幼い主人の車を後ろから警護する騎馬が門外の薄闇に包まれるところまで見届けてから、崔氏は夫のほうを見やった。
彼もまた、門外の路上に出て小さくなってゆく一行を眺めているが、その眼の焦点をどこに合わせているのか、傍目には分からなかった。
「戻りましょう」
屋内へ、という意味で、崔氏は静かに声をかけた。
曹植は彼女のほうを向かず、しばらく微動だにしなかった。
そして一瞬、何かに耐えかねたように目をつむると、
「そうなのか」
と、絞り出すような声で言った。