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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
132/166

(六)射場

 日があるうちにとは言ったが、射場にはすでに斜陽がさしかけていた。

 とはいえ(まと)は十分に視認できる明るさである。


 邸の敷地内とはいえ、婦人の居住区画である奥向きからはだいぶ離れており、かつ曹植がふだん射術の鍛錬をする際に侍奉させる従者は当然ながら男ばかりなので、崔氏もここにはめったに足を運ぶことがない。

 いまは人払いをしたので、少し離れたところに控える侍女たちと曹叡の従者たちのほかは、射場には曹植夫妻と曹叡しかいない。






「最初は、このあたりからがいいな」


 曹植は射手の足場を定めて、曹叡に弓をつがえさせた。

 崔氏もそれほど射術を見慣れているわけではないが、十歳にもならない子どもの細腕と考えれば、たしかに堂に入った構えであるといえた。

 つと、思いがけぬほど力強く弦が鳴り、矢が瞬時に(くう)を裂いた。


「ああ……」


 少年が落胆の声を漏らしたのは、第一の射が的をわずかに外してしまったためである。


「こんなに近かったのに」


「この場所では慣れていないからだ。日差しの向きもあまりよくないな」


 言いながら、曹植は甥の手に自身の手を添えて、握り方を少し改めさせた。

 自分自身でもいうとおり、曹植は曹操の諸子のなかで射術のおぼえがとくによかったわけではないが、長兄曹丕や次兄曹彰の熟達ぶりに憧れ時間をかけて訓練を積んだだけあって、いまでは安定した騎射ができる程度には着実に身に着けている。


 この道において天才肌ではないので、教え方もごく平明で要を得ており、かつ幼な子の長所をみつけてやるのが上手だった。


 西日がまた少し傾きつつあった。

 何度か試射を繰り返しながら、少年の放つ矢は的に確実にあたるようになってきた。

 曹植はある時点で足場を変えさせ、より遠くから的を射るように促した。

 少年の指先と弦を離れ、一瞬夕日を反照させたかに見えた矢は、最初から的の中心を射抜いた。


「やった!」「よくやった!」


 甥と叔父の声がほぼ重なり、曹叡は弓を足元に放りだして曹植の胴に抱きついた。

 曹植も彼の背中を抱くようにして喜びをともにしている。


 これまでこの少年が浮かべたうちでいちばん満ち足りた子どもらしい表情に、傍らからみている崔氏も胸が熱くなった。

 それと同時に、


(子建さまもきっと、少しでも早く男の子がほしいにちがいない)


という思いを新たに深めた。

 彼女自身が、夫と息子のこうした光景を目にしたいためでもあった。


「この分なら、伸びが早いな。

 子桓兄上が、―――そなたの父上が江東より戻られたら、さぞかし喜ばれよう」


「―――はい」


 曹叡の声からはしゃぐ調子が抜けていった。

 父親のことに言及されたためなのか、それは分からなかった。






「少し、暗くなってまいりましたね」


 崔氏は曹叡が放った弓を拾い上げながら、ふたりに声をかけた。


「義姉上さまに―――お母さまに使いを出して言上いたしますから、元仲さまもよろしければこちらでご夕食を」


「それがいい」


「ありがとうございます。でも、帰ります。

 夕食はいつも母上と妹と一緒なので、―――あ」


 曹叡の声がふたたび明るくなった。

 彼が目を留めたのは、崔氏が手にした薄紅色の手巾である。

 弓の土埃を払おうとして、つい袖から取り出したものであった。


「それは、ご出産のお祝いの化粧箱と一緒に、母上が叔母上に贈られたものですね。

 その色合いをおぼえています。糸を選ぶときもとても吟味しておられました」


 母親について話すときの少年の声は歌うように軽やかで、心なしか誇らしげであった。


「叔母上が実際にお使いくださっていることを、母上にお伝えします」


「本日元仲さまがおいでになると存じませんでしたのに、巡り合わせがあるものですね。

 母上さまにも重ねて御礼をお伝えくださいませ」


 少年の笑顔に心ほぐされるようにして、崔氏も笑いかけながら言った。

 同時に、何も言わないでいる曹植の目が自分の手元に注がれていることも分かっていた。






 出産の直後は義母(べん)氏が枕頭に付き添ってくれたが、出産から数日して崔氏の体調が少しずつ落ち着いてくると、夫方のほかの親族女性たちも見舞ってくれるようになった。

 そのうち父兄の妻妾にあたる婦人たち、つまり曹植にとって血のつながらない女性が訪れるとき彼は席を外していたが、そういった婦人たちから贈られた品々を崔氏は後でひとつひとつ夫に見せていた。


 そのなかにはむろん、甄氏からの贈り物もあった。

 病がちであるためにめったに外出しない彼女がみずから臨菑(りんし)侯邸へと足を運び、携えてきてくれた品であった。

 新生児への祝いの品自体は別途、甄氏の夫つまり曹丕の名義で贈られてきている。


 つまり、崔氏当人をねぎらう贈り物を渡すために、身体の弱い義姉がみずから来臨してくれたのだった。

 その事実に崔氏は感激をおぼえたが、義姉からの贈り物もまた、目をそばだたせるものであった。


 それはすばらしく光沢のある漆塗りの化粧箱で、辟邪(へきじゃ)の獣が鋳込まれた青銅の鏡、脂のようになめらかな玉の櫛、珠玉で縁取られた銀の笄などのひと揃えが収納されている。

 いずれもきわめて上質なものであった。


 甄氏が訪れた日の晩、崔氏は義姉から贈られたものを夫にみせた。

 一瞬迷いがなかったわけではないが、ほかの婦人たちからの贈り物はすべて彼に見せてきたのだから、隠すのはおかしい。

 それに、この品ならばそこまで関心は引かないだろうという予想もあった。

 果たして曹植は化粧箱とその中身を一瞥したものの、「立派なものだ」と言っただけでその話はそこで終わった。


 いくら甄氏が幼少時から学問だけでなくさまざまな手仕事に通暁していたことで名高い婦人だとはいえ、今回の贈り物はむろん工匠の手になるものであって、甄氏は発注した顧客の立場に過ぎない。


 だから、曹植がこの品々に義姉との接点をさほど感じなくても無理はなかった。

 崔氏もそう考えたので、包み隠さず夫に示したのだった。一点を除いては。


 化粧箱の一隅に収められていた絹の手巾は、甄氏が手ずから織りあげたものだった。

 手巾にしては大きいもので、化粧箱を包むのにも使えそうであるが、日に透かして見ても、布目は驚くほど均一かつ緊密であった。

 四隅にほどこされている刺繍は何対かの鴛鴦(えんおう)で、見る角度を変えると翼の色も変わるかのようだった。

 

 それを贈られたとき、崔氏は牀に横たわったまま義姉の目の前で手巾を大きく広げながら、心から賞賛の辞を捧げた。


 貧富を問わず、あらゆる階層の女子の務めとして、崔氏もむろん実家にいたころから機織りに励んでいたが、冀州の豪族としては貧弱な部類に属する清河崔氏の家の婦人たちが紡いだり織ったりする布はあくまで生活のための布であって、使う人間の目を楽しませるために意匠を凝らすといった発想が出る余裕はなかった。


 資力のある家であれば使用人に任せるような雑用も含めてさまざまな家政を効率よくこなす必要があったので、崔氏も機織りや針仕事の手際は悪くないほうだという自覚はある。

 だが、清河の名産である(かとりぎぬ)を除いては、他家の人間から感心されるほど高度な技術を実家で仕込まれたわけではない。


 幼いころから良質なものに囲まれていないと、これほどに洗練された意匠はなかなか創り出せないだろう。

 しかし、富貴な家に生まれたすべての婦人がこのように卓越した技巧をわがものにできるわけではないのだから、やはり義姉の天性と努力のたまものであった。


 むろん、その成果を誇ることもなく、義姉は崔氏の枕元で控えめにほほえんでいた。

 病み上がりで薄化粧しかしておらず、そのうえ三十をいくつも越えているにもかかわらず、どれほど見つめても飽き足りない花容であった。

 (けん)を競おうという気を、そもそも他人に起こさせる余地がない。


 義姉が体調を崩しがちになったのは、第二子つまり曹叡の妹を生んだあとの肥立ちがあまりよくなかったからだと卞氏からかつて教えられたが、顔色がやや青白くみえる今でさえ、義姉がいるおかげでこの閨の光彩が増したかのようであった。


(お身体が十全でない今でさえこうならば)


 まだ健康を保っていたころ、つまり、鄴の陥落からほどなくして甄氏が曹家へ正式に嫁いだその晩、惜しみなく灯された慶祝の燭火に照らし出された彼女はたしかに天女であっただろう。

 そしてその同じ晩、曹家の堂かその周辺で、曹植は初めて彼女に引き合わされ、義理の姉弟としての礼を交わしたはずなのだ。

 いまからちょうど十年前、彼は十三歳だった。


(よかった)


 夫がこの場、この閨に同席していなくて本当によかった、と崔氏は思った。


 出産直後のやつれや疲弊の色は彼女の面上にはすでになく、滋味に溢れた食事のおかげで血色や肌の張りはむしろ出産前よりもよくなっている。

 だがそれでも、天女のようなこの義姉と自分とが夫の視界に同時に収まる可能性を思っただけで、我知らず動悸が激しくなった。


 自分が全く居合わせないところで、たとえばこの邸の門前などで夫と義姉がたまたま遭遇してしまう事態のほうが、よほど受け入れられる気がした。


「いま無理をなさると、一生を通じて後々まで響きます。どうかお大切に」


 甄氏は最後にそう念を押し、崔氏の空いている手を取って両手に包んだ。

 表情と同じ温もりのある声だった。

 義姉が退室していった後も、座には香気がとどまっていた。


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