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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
131/166

(五)叔姪

 それから間もない日の夕刻近く、曹植は甥の曹叡(そうえい)を連れて、いつもより早く邸に戻ってきた。

 仲秋の終わりに近づいたとはいえ、太陽がひとたび西に傾けば瞬く間に落ちてゆく季節というわけではない。あたりはまだ明るかった。


 長兄曹丕と甄氏の長子であるこの少年を、曹植は少し前まで小字(おさなな)で呼んでいたが、最近は「元仲(げんちゅう)」と(あざな)で呼ぶようになった。

 まだ数え九歳であるが、彼を鍾愛する祖父曹操から早くもつけてもらった字であった。


 曹叡に対するあまりの愛情の深さゆえに、曹操はどこへ行くにも彼を連れてゆくことはよく知られており、遠征もまた然りであった。

 しかし、今回の江東討伐に限っては、軍が整う前の夏場に曹叡が体調を崩しがちであったために、大事をとって鄴の邸に留まらせ、もともと身体が弱い母親(しん)氏と幼い同母妹とともに静穏に過ごさせることにしたのだという。


 かつて諸子のなかで誰よりも愛した曹冲(そうちゅう)という息子を、従軍中に発した病のために亡くしたこととも無関係ではないであろう、と周囲の者からは推測されていた。






「お久しぶりでございます、叔母上」


 今日の曹叡は従者を除いては大人の男性を伴っていないので、曹植はためらいなく邸の奥向きへ彼を連れてきて、妻とむすめに引き合わせた。

 崔氏が曹叡に会うのは初めてではないが、これまで直接ことばを交わす機会といえば、病がちな甄氏のもとへ見舞に行くときくらいしかなかったので、自身の(へや)でこの少年を迎えるのは新鮮なことであった。


(母君の血をよく受け継ぎ、会うたびに美しくなられる御子だ)


という驚きを新たにしたが、いま目の前に見る少年は、母親の膝元にいるときにもまして、あるいは崔氏がこれまで邸の奥からしばしば遠目に眺めていた、父曹丕に連れられて曹植を訪ねてくるときにもまして、子どもらしい快活さと伸びやかさを露わにしているようにみえた。


 顔立ちや身なりの際立った美々しさを差し引いてみれば、好奇心や体力に突き動かされてやや落ち着きのない、どこにでもいる男児のような佇まいである。

 その自然さを引き出しているのはむろん、叔父曹植への信頼と親愛の深さであろうと思われた。


(子建さまはまことに、慕われておられる)


 何の屈託も不安もなさげに曹植にじゃれつく曹叡の表情をみると、崔氏の心も温まった。それはつまり、父親たる曹丕とともにいるときのこの少年が、常にどこか緊張しているようにみえるからでもある。


 曹植としては曹叡の従妹として生まれたばかりの金瓠を見せたかったらしいが、あいにく今日の彼女はむずかりがちで、せっかく顔合わせした従兄にも、笑顔を向けようとはしなかった。


 それに加え、曹丕そして曹操にすら児女は近年も誕生しているので、曹叡にとって生後ひと月ほどの嬰児がそれほど珍しいものでもなく、長々と見せられて興味深いものでもないであろうことは崔氏にも察しがついた。


「子建さま、金瓠は機嫌がよくないようですわ。そろそろ引き取らせましょうか。

 元仲さまには申し訳ないですけれど」


「そうか?怒ったところも愛くるしいだろう、元仲」


「はい、その、元気がいいですね」


「ふだんはもう少し大人しくて聞き分けがいいのだが。母親に似て貞淑なのだ」


 子建さま、と崔氏は小さな声でたしなめたが、曹植には通じないようであった。


「それに、まだ生後ひと月なのに、はっとするほど黒目が大きくて色白だろう。

 母親そっくりの、楚々としたむすめに育つにちがいない」


「そうですね、―――」


 目上の大人からそんなふうに語りかけられれば、九歳の子どもであっても、本心はどうあれとりあえず同意せざるを得ないだろう。

 崔氏は気恥ずかしいやら居たたまれないやらで、いいかげん黙らせなくてはと思ったが、曹植は気づいた風もなかった。

 しかしようやく切りのいいところで乳母に金瓠を預け、隣の房へと連れてゆかせた。






「金瓠には、すぐに弟か妹が生まれますね」


 曹叡がまるで託宣のようにつぶやいたので、曹植と崔氏は目を瞬いた。


「弟妹?」


「叔父上と叔母上はとても睦まじくていらっしゃるので。

 両親の仲が睦まじいと、弟や妹が増えてにぎやかになるものだと聞きます」


「ああ、まあ―――」


「それに、夜は一緒にお休みになっているでしょう」


「夜?」


 さしもの曹植もいくらか動転したような声を上げた。

 崔氏はことばを失い、ただ目元が赤くなった。


「ここまで連れてきていただいた途中で、ほかのご婦人の姿やその(ねや)を見かけませんでした」


 曹叡の視界にはもちろん、奥向きに仕える侍女たちの姿は入っていたはずだ。

 だがここでいう「ご婦人」とは、この邸の女主人である崔氏に次いで使用人たちからかしずかれるような、相応の身なりをした側室を指していることは、崔氏にもわかった。


「側室がおられぬということは、叔父上は叔母上の閨以外ではご就寝にならないでしょう」


「まあそれは、そうだな、まあ」


 出産からこのかた一か月間、妻を安静に過ごさせるために曹植は寝所を別にしているが、妻以外の婦人のところで休んでいないというのは事実ではあった。


「一緒にいる時間が長いと、それだけ子どもが授かりやすくなるのではないのですか」


「―――むろん、そのうちまた授かるとは思うが」


 いくらか歯切れが悪くなった叔父とは裏腹に、曹叡は子どもらしい声でぽつりと言った。


「うちもそうだったらいいのにな」


 ”うち”とは甄氏と曹丕の間柄を指すことは、曹植と崔氏にも分かった。

 曹丕は側室らには近年何人も子女を生ませているが、甄氏とは、結婚後二三年のうちに曹叡とその妹が生まれて以降、子を生していない。


「心配ない。子桓兄上と―――そなたの父上と母上の間にも、いずれじきに新しい弟妹は授かるだろう。

 そなたの母上が健康を回復なされば」


 曹叡はすぐには答えなかった。そして小さく首を振った。


「母上の具合が久しぶりによろしいときにも、父上はあまりおいでにならないのです。

 僕や妹が同席していれば別ですが、母上と二人きりのときは食事を一緒になさることも、お泊まりになることもありません」


「―――そうなのか」


「いまは父上はお祖父さまとともに鄴を離れておられますが、父上が鄴にいらっしゃったとしても、母上の生活はあまり変わりません」


 曹植と崔氏は互いの顔を見交わしたが、安易なことばをかけるのはためらわれた。


「今回の遠征には、父上は側室の方々をお連れになったので、その子ども―――ぼくの異母弟妹たちもそちらに同行しているのです。

 だから、叔父上のところには子どもがたくさんいるといいなと思って」


 そういうことか、と曹植はうなずいた。


「でも、できるだけ叔母上との間に生まれるのがいいと思います。

 金瓠も寂しくならないから」


「それは、そうだな」


「叔父上はいまは鄴の守備という大任がおありなので、日中はずっとお忙しいことは存じ上げています。

 だから、夜はできるだけおふたり一緒にお過ごしになってください」


「お、おう」


 曹植がことばに詰まり、崔氏がますます目元を赤くしたとき、ちょうどそこへ、侍女が(なつめ)を盛った皿を運んできた。

 崔氏は救われた思いでそれを受け取り、曹叡へ勧めながら、彼の携えてきた弓に目を留めた。


「元仲さまは、もう射術を習っておられるのですね」


「去年からです」


「そうだ、本題を忘れていた。

 そもそも今日は、進み具合を俺に見せたいと言って射場のほうへ来たのだ」


 射場はこの邸内にもあるが、曹植のいう射場は、鄴の留守役として彼が禁兵を束ねる詰め所の付近にある広大なものである。


「十回のうち五回は的に当てた。大したものだ」


「まあ、すばらしいこと」


「あまりに拙くて、お恥ずかしいです」


 曹叡は少しく大人びた笑みを浮かべながら、いくらか声を落とした。

 年齢に見合わぬ謙遜というわけではなさそうだった。


「父上は六歳で射術を始められ、八歳で騎射をお出来になりました。

 僕はまだ馬術も射術も半端だから、父上はご不満です」


「子桓兄上は、―――そなたの父上は特別だ。

 小さいころから何でも巧みにこなしておられた。

 俺も、早く追いつきたいと思ったものだ」


「―――でも、僕はとりわけ覚えが遅いと、―――ち、父上は」


 曹叡の声に、これまでにない緊張が滲んだ。


「な、な何度も、お、おお、おっしゃって」


「ゆっくりでいい」


 曹植は静かにそう言いながら、甥の背中に手を置いた。

 曹叡に吃音(きつおん)の傾向があるということは、これまでことばを交わした数少ない場面を通じて、崔氏も気がついていた。

 ただ、母親甄氏がそばに寄り添っているときは、ここまではっきりと表れたことはなかったように思う。


「ご、ごご、ごめんなさい」


 小さな顔が真っ赤になっている。崔氏はいたたまれない思いがした。

 曹丕はおそらく長男のこの特性にも不満を抱いており、かつその不満を本人にはっきり示しているのではないか、という危惧をもった。


「こじんまりしたものだが、この邸にも射場がある。

 叔母上に射技を見せてやってはどうか。婦人はなかなか外で見られる機会もない。

 そなたの構えは立派なものだ。基礎の教え方がよかったのだろう」


「まあ、ぜひ。日があるうちに、まいりましょう」


 叔父夫婦からの請いに、曹叡の表情が少しだけ朗らかさを取り戻した。











補足:


 本節タイトルの「叔姪(しゅくてつ)」について、蛇足ながら追記です。


 「叔」は父親の弟、つまり曹叡からみた曹植を指します。

 「姪」は日本語では「めい」の意味しかありませんが、漢文では「侄」と通用する文字で、兄弟の息子つまり同姓の「おい」を指します。


 曹叡がじつは女児(曹植にとって「めい」)だったというオチは今後もでてこないので、念のため……


 現代中国語だと、兄弟の娘あるいは同世代の友人の娘を指すときは「侄女」と書くことが多いようですが、文言つまり日本語でいう漢文だと「兄女」「弟女」といった書き方が多いように思います。

 たとえば『三国志』巻12崔琰伝で曹植は「琰之兄女壻也」と書かれていますが、仮にこの文脈で曹植の妻自身について言及するならば、「琰之兄女」と書いたであろうと思われます。


 他方、日本語で「おい」の漢字として用いる「甥」は、漢文では姉妹の息子か娘、つまり異姓の「おい」「めい」を指すことが多いようなので、これもややこしいですね……


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