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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(四)弄瓦

「もう人の笑顔が分かるのか。金瓠(きんこ)は賢いな」


 赤子にそう語りかけながら、曹植はとろけるように柔らかいその頬を軽くつついた。

 きゃっきゃっという分かりやすい反応ではないものの、金瓠もどことなく喜んでいるようにみえる。

 それだけで胸がいっぱいになったかのように、曹植はじっと赤子の顔を覗き込んでいる。


「本当に、おりこうなお嬢さまでございますね。

 一日に何度もむずかって奥方さまを困らせることもなさいません」


 同席している乳母が、曹植に同調するようにうなずいた。

 たくさんの赤子を見てきた経験豊富な彼女がそう言う以上、おそらく金瓠は本当に手がかからないほうの子なのだろう。


 それはあるいは、生まれながらに体力が十分ではないからなのではないか、という懸念―――決して今日はじめて抱いたというわけではない懸念―――が崔氏の頭をふとよぎっていったが、不吉な予感はすぐに振り払うべきであった。


 天下に号令する魏公の孫として生まれた我がむすめは、この(あめ)が下で最も恵まれた待遇を受けられる嬰児のひとりであるといってよい。

 日々十分に乳を含ませ暖衣飽食させれば、時とともに仔鹿のように健やかな少女へと成長してくれるのは間違いない。そうならないはずはない。

 崔氏は努めてそう信じようとした。


 金瓠が少しずつうとうとしはじめ、しばらくは父母の手を煩わせなさそうだと判断すると、乳母はいったん退室して親子三人をその場に残した。






「ついぞ思わなかった」


 曹植が独り言のようにつぶやいた。


「え?」


「むすめという生き物が、こんなにかわいいものだとは」


「―――はい。まさしく」


「乃ち女子を生まば、(すなわ)ち之を地に()せしめ、載ち之に(むつき)()せ、載ち之に()(糸巻き)を弄せしむ。

 ―――この句を習ったときは何も疑わなかったが、こうしてむすめを授かってみれば、そんなことができようか」


 そんなこと、というのは、女児に対しては生まれたときから男児に及ばぬ粗末な扱いをして己の立場の(ひく)さを自覚させるべき、とする『詩経』小雅の詩「斯干(しかん)」の趣旨を念頭に置いたものであろう。


 女児は男児と違って祖先の祭祀を継げないのだから、何につけても女児が後回しにされるのは仕方がない―――崔氏も幼少時からそういうものだと信じて疑わず、叔父からこの詩の解釈を教授されるがままに暗誦したものだが、たしかに自分にむすめが生まれてみると、とてもそんなふうには割り切れそうにない。


 たとえ曹家のような天下の覇者の家ではなく、ごく余裕のない庶人の家に嫁いで生んだ子であったとしても、我が身にかかる費用を極力切り詰めてでもこの子には何でもしてあげたいと、そう思う気持ちは真実であった。


「父上はあまり、俺の妹たちに関心を向けるところをお見せにならなかった」


 そう言うと、曹植は初めて妻のほうを振り向いた。


「だからずっと、父親とむすめの関係とはそういうものかと思っていた」


「―――そうですの」


 崔氏はやや反応に困った。

 むすめのことが己の命より愛しく思われてならない彼女もやはり、義父の心情には同調できないが、しかし父母たる者が男児より女児を軽んじることは全く特異ではなく、世の風潮として当然ではあった。

 曹植も別に父曹操を非難するために言及したわけではないことは、崔氏にも分かった。


「我が身に起こってみなければ、分からないものだな」


「はい」


「だが父上も、大きい姉上のことはたいそう大事にされている。

 俺の目にはそうみえる」


 曹植が「大きい姉上」と呼ぶのは最年長の姉のことで、曹操の側室たちのなかでは早くに娶られ早くに没した劉夫人の生んだむすめである。

 つまり曹操の亡き長男曹昂(そうこう)の同母妹にあたり、後年清河(せいが)長公主という称号を得ることになる。

 彼女は曹植よりだいぶ年長なので、崔氏が曹家に嫁ぐより前に夏侯氏の家に嫁いでいる。


 曹植は金瓠が眠るほうに視線を移し、独り言のようにまた言った。


「長女だと違うものなのだろうか。次女三女でもかわいいにちがいないと思うが」


「ええ、きっとその通りです。―――ですが、次は」


 崔氏は一瞬の間を置いてから、ためらいがちにつづけた。


「次は必ず、男の子を」


 それは本心からの強い願いであったが、しかし己がその任を確実に果たせるかどうかは、決して言い切れない。

 曹植は妻のほうを見やり、安心させるように笑った。


「むろん、いずれは男児が欲しいとは思うが、―――そなたはもう少し休むべきだ」


「お心遣い、かたじけなく存じます」


「母上から、その方面についてもよく言い含められた。

 あまり立て続けに負担をかけるなと。俺もよく自制する」


「ま、まあ、義母上さまから」


 義母の懇切な気遣い自体は崔氏もうれしく思ったが、世の中の母と息子は「その方面」について話し合うものなのだろうか。

 夫と義母の親愛ぶりがひとかたならぬものであることは、曹植との結婚生活を通じてよくよく体感してきたが、今また新たな切り口を見せられ、崔氏は思わずことばに詰まった。


 とはいえ、夫からいまの宣言を聞かされて、彼女の心に大きく懸かったのは別の問題であった。


「義母上さまは、―――納妾について、子建さまにお勧めになられましたか」


「何だ、まだ気になるのか」


 苦笑まじりに問われ、崔氏はややいたたまれなくなり目を伏せた。

 妾を迎えることについてどうお考えか、という意味のことは、妊娠期間中にもいちど問い尋ねている。

 執拗な詰問ではないにしても、煩わしがられるようなことを言ってしまった、という自覚があった。


 目下のところ、夫は―――往時の洛陽もかくやとばかりの繁栄を謳歌するこの鄴を守護する責任を一手に担う曹植は、しかるべき手続きさえ履めば、城下に咲き誇る艶麗な名花を摘み取って自邸に飾ろうと思えばいくらでも可能な立場にある。

 それでいながら、そんなことは思いも及ばぬかのように、毎晩むすめと自分のもとに必ず戻ってきてくれる。


 庶人の夫婦ならばおよそ当たり前であろうことが、権貴の家では決してそうではないことを、曹家に嫁いで以来崔氏はしばしば身近で見聞きしてきた。

 そんななかで、臨菑(りんし)侯邸の閨房のつましさは、鄴を後にしようとしていた母卞氏の目にもやはり奇異に映っていたのではないか。


「何もおっしゃられてはいない。そなたを大切にせよという以外のことは」


「―――身に余るご厚恩です」


 義母に対する本心からの謝意を込めて、崔氏は言った。


「母上は身辺の誰に対しても恩愛深くふるまわれるから、分かりにくいかもしれないが、そなたは気に入られている」


「そうでしょうか」


「結婚してから、俺の行状が落ち着いてきたことをお喜びだ」


「……そうでしょうか……」


 崔氏はいくらか眉を寄せながら、この点には留保が必要だと思った。

 彼女の目から見れば、いまの夫の素行とてなお大幅に改善の余地がある。

 結婚前はどれだけ無軌道だったかという話であるが、その片鱗については清河にいたころすでに目にしている。


「ともかく、心配するな」


 そう言いながら、曹植は少し間を置き、そしてはにかむように妻の顔から視線をそらした。


「たとえ父母から命ぜられなくとも、大事にする」


 そして、嬰児用の牀に眠るむすめのほうに顔を向け、とても小さなその手を軽くにぎった。

 崔氏は夫のすぐ横に立つと、牀の手すりにかけられたほうの手の上にそっと手を載せてみた。

 近日は登庁の前に射術の訓練を重ねているせいなのか、その指や手の甲の感触は、思っていたよりもだいぶ武骨になっていた。


「嫁いできたころ」


 赤子の顔から眼を離さないまま、曹植が言った。


(ねや)(とばり)の外では、こうやって手を重ねることさえ、はしたないと言っていたな」


「はい」


「今は平気か」


「―――今でも、はしたないと思っております」


「はしたなくても、するのか」


 その声は笑いを含んでいる。

 崔氏の目元が赤く染まった。それでも小さな声で答えた。


「―――したいので、します」


 曹植はとうとう声を上げて笑った。

 静かに、と妻から制せられて慌てて口をつぐみ、夫婦で赤子のほうを見やると、そのいとけない口元はたしかに微笑むかのようにみえた。











補足:


 今回引用した「斯干」は、韓詩と毛詩でテキストが分かれている『詩経』作品のひとつです。


 拙作では曹植は韓詩学派の人という主流的な見解にのっとっているので、上記で彼が口ずさんだ

「乃ち女子を生まば、載ち之を地に寝せしめ、載ち之に褅を衣せ、載ち之に瓦を弄せしむ」

は、韓詩テキストに準じたものです。


 崔氏の叔父である崔琰は鄭玄(じょうげん)の門下生で、鄭玄は今文・古文の五経いずれにも通じた大学者ですが、『詩経』に関しては毛詩テキストに付した(せん)(注釈)が有名です。


 よって拙作の設定上も、崔氏が習った『詩経』は毛詩テキストですが、毛詩のほうの「斯干」は「褅」を「裼」に作ります。


 ただしこの二字は同じ意味なので、正文の異同をめぐって夫婦間で対立が生じるほどではなく、今回の場面でも、崔氏は違和感をおぼえつつも突っ込まない……という設定です。こまけえな!


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