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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
清河
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(四)経に反するも善なり

 岸辺にはすぐに着いた。この小川の両岸は砂地ではなく、岩場が連なる形になっている。


 青年は、やや高い位置にあるが川面に張り出している大岩に目を留めると、両手をかけて一息で登り、濡れて貼り付く裳にいくらか足をとられながらも先に上がっていった。


 そして、振り返って崔氏に手を伸ばした。だが彼女は首を振った。


「ありがとうございます。あちらから、ひとりで上がれますので」


「ひとりでは危なかろう」


「大丈夫です」


 崔氏はあくまで断り、できるだけ低い位置にある岩から少しずつ高いほうへ登ってゆこうとした。先ほど夢中で駆け下りたときはほとんど気づかなかったが、川の浅瀬と川岸の岩場にはそれなりの高低差があったらしい。それでも慎重に足場を選べば上がってゆけると思った。


 だが、岩はところどころ水に洗われているうえに、彼女の履き古した革履はもともとこういう場所に向いた造りではないこともあり、少し歩くと危うく滑りそうになった。


「ほら」


 だから言ったろうに、と言いたげな調子で青年が上方から声をかけた。


「さっきのあの岩から登ったほうがいい。俺が引き上げる」


「大丈夫です」


「なぜそう(かたく)ななのだ」


 崔氏は、このかたこそなぜお分かりにならないのだろう、と思った。だが、彼の顔を見上げても、気づいているそぶりはないので、しかたなく小さな声で答えた。


「―――未婚の男女が手を握るなど」


「何だって?」


 呆れるというよりは、心の底から面食らったような声で青年は訊き返した。


「先ほどは、そなたのほうから俺の手を取ろうと差し出したではないか」


「あれは、非常時だったからです。勢いよく転倒なさったら大変だと」


「そなたはまだ水に浸かっている。いまも、非常時のようなものではないのか」


「いまは違います。洪水に流されるわけでもありません。

 孟子(もうし)もおっしゃっているように、(あによめ)(おとうと)の間では、溺れているのを助けるときぐらいしか手を握らないのですから、赤の他人の男女ならなおさらでありましょう」


嫂叔(そうしゅく)……」


 青年はなぜかその単語を口にする際に言いよどんだが、すぐに反駁した。


「溺れている嫂を叔が手で助けるのは“権”だと孟子は言い、“権”とは常道に反するが善いことだと趙岐(ちょうき)は注しているだろう。つまり、嫂叔の間に限った話ではなく、必要に応じて変則的な計らいをするのは容認される*ということだ」


「ですが……」


「その岩場はいちど転ぶと肌を深く裂きそうだぞ。そなたの膝の傷跡も、昔このあたりで無理をしたせいでできたのではないか」


 崔氏は愕然として目を見開いた。


「―――ごらんになったのですか」


「あ、―――まあ、見えた」


「そんな……」


「いや、傷があっても、きれいだった。清らかな白絹を束ねたようだ。陳腐なたとえですまないが」


 崔氏は両手で顔を覆った。膝まで見えたということは、その下はすべて見えたということである。


 そのようすをみて、青年はようやく、自分が賛辞を捧げたこと自体がまちがっているということに―――あるいは、このむすめがいかに深刻に事態を捉えているかに気づいたようであった。明らかに手遅れの感はあったが、弁明を試みる。


「いや、見ていない、ほとんど見えなかった。だから大丈夫だ」


「―――死んでしまいたい」


「それぐらいのことで死を念じるものではない」


「それぐらいではありません。あなたさまの姉君や妹君が同じような経験をなされたら、どうお思いになられますか」


「どうかな。我が家の姉妹は、そういうのはあまり気にしなさそうだ。

 というか、見られたと思ったら相手を殴りつけてせいせいしそうだ」


 それを聞いて、崔氏はいっそう混乱を深めた。この青年は明らかに貴門の子弟のようにみえるが、その同じ家の令嬢が、他人に肌を見られて絶望しないなどということが―――しかも暴力をふるったりするものだろうか。




*『孟子』離婁上 ※【 】内は趙岐注

淳于髡曰、“男女授受不親、禮與”。【淳于髠、齊人也。問、禮、男女不相親授】孟子曰、“禮也”。【禮、不親授】曰、“嫂溺則援之以手乎”。【髠曰、見嫂溺水、則當以手牽援之否邪】曰、“嫂溺不援、是豺狼也。【孟子曰、人見嫂溺、不援出、是為豺狼之心也】男女授受不親、禮也。嫂溺援之以手者、權也”。【孟子告髠曰、此權也。權者、反經而善也】

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