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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
伉儷
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(三)金瓠

 建安十九年(二一四)七月、魏公曹操は江東に向けて孫権征伐の軍を発した。

 曹操の家人の多くが従軍を命ぜられる中で、(ぎょう)の留守を任せられたのは曹植であった。


 魏公の宮殿そして丞相府と魏国の諸官庁が集中する曹家の本拠地を守備する総責任者という地位は、二十三歳の彼にとってかつてない重責といえたが、傍目には委縮しているとはみえず、むしろ常にも増して意気軒昂であるかのように映った。


 それは故のないことではなく、ひとつには願わくは文筆よりも軍務によって功業をたてんとする平素の志が報われたがためであった。

 そしてもうひとつには、彼の最初の子である長女が、同じ七月、討伐軍出発の直前にあたる時期に、無事に誕生したためである。


 閲兵のために早朝から登庁し、鄴城内外の衛兵を差配する部隊長や鄴の四方に放った偵察たちからの報告を受けるといった日々は、ときに過密でありながらも、曹植はいっこうに疲弊した風もなく、気力体力ともに充溢した姿を公の場に見せていた。


 むろん、曹植に格別の寵愛を向けている曹操といえども、これほどに年若く経験が浅い我が子を万能だとは考えていないので、都城の防衛に熟達した部将たちそして実務に長じた文官たちのいくばくかを鄴に残してゆき、曹植の補佐としてあてがっていた。


 果たして彼は、老練な将吏らの意見を尊重しながら権能の均衡を心がけ、特定の立場に肩入れして鄴の内部に衝突や緊張を引き起こすこともなく、外部の不穏な動きも未然に抑えながら守備体制を維持している。

 父から寄せられた深い期待に、いまの曹植は十全に応えているといえた。






「今日もつつがなかったか」


 一日の終わり、曹植は臨菑(りんし)侯邸に帰着すると、侍者たちの手による着替えが済むが早いか、待ちかねたように奥向きへ足を運び、妻とむすめの顔を見に行くのが常であった。

 彼はむすめに、金瓠(きんこ)(黄金のひさご)という美しい小字(おさなな)を与えていた。


「ええ、―――目が合うと、笑ってくれるようになったような気がいたします」


「本当か」


「気のせいかもしれませんが。ようやくひと月が過ぎたばかりですから」


 ときは仲秋、八月の半ばを過ぎ、朝に夕にようやく涼気が漂うようになってきたころである。

 初産を終えてから一か月の間、崔氏はほとんど閨から出ることなく、夫の母が手配してくれた十分な看護を受け食事を摂りながら、順調に体力を回復することができた。


 常と同じく、義母の卞氏も曹操に従って今回の江東遠征の軍に身を置くことになっていたが、出立直前のせわしないなかで誕生した曹植の長女の誕生を誰よりも喜び、何とか時間を設けてはたびたび崔氏の閨を訪れては彼女をねぎらいつつ赤子をいとおしみ、曹植に対してはこの後ひと月は妻に十分休息と栄養をとらせるように堅く言い含めて、とうとう鄴を後にしたのであった。


 義父の曹操はといえば、寵児曹植の初子であるとはいえ女児であると知った瞬間にほぼ関心を失ったのであろう、いちどだけ卞氏とともに赤子を見に来てくれたが、それきりであった。


 しかし、出征直前の多忙を極める時期にわざわざ足を運んでくれたというだけでも稀有なことであると言わねばならない。

 少なくとも崔氏は今回の出産に対する義父母の応対、とりわけ義母卞氏の篤い心配りにこのうえなく感謝していた。


 約二年半前、正月を迎えて数え十八歳になった崔氏は、その年の仲春に丞相の第三子曹植へ嫁ぐに際して、育ての親にあたる叔父叔母こと崔琰夫妻からは多方面にわたる訓示や助言を受けていたが、叔母が懸念していたのはもっぱら、世人の噂では曹植は父曹操からだけでなく母卞氏からも最も深い愛情を注がれているらしい、という点であった。


(あのかたの情愛深さはたしかに、そうやって形づくられてきたのであろう)


と崔氏は思い、母親の愛から遠ざけられながら育つよりもはるかに望ましいことではないかと感ぜられたが、叔母の意見では必ずしもそうではないらしかった。


「婚家での暮らしの安寧は何よりも、ご夫君の母君との関係にかかっています」


 そう前置きしてから叔母は、母親というものは諸子のなかでも最愛の息子が娶った妻にはしばしば辛くあたり、理不尽な目にあわせることが多いのだと念押しし、その風当たりを少しでも和らげるための心得を説いてくれた。

 崔氏は叔母のことばを神妙に拝聴し、嫁いだ後は努めてその言いつけを守ろうとしたが、実際のところ杞憂であった。


 曹植が清河に滞在していたころに彼の口から何度も聞かされた話に違わず、また世人の評判にも違わず、卞氏という婦人は最愛の息子がみずから選んだ妻である崔氏に対しても何ら含むところなく愛情をもって接してくれ、またいかなる場面でも公平な態度を持する義母であった。

 それが表面の取り繕いでないことを、崔氏は今回の産後に際して卞氏から受けた真摯な配慮を通じて心から感得したのであった。


(わたしは本当に、身に過ぎるほど幸運だ)


 曹家に嫁いでからこれまで何度となく思ったことを、崔氏は改めて胸の深いところでつぶやいた。

 第一子が女児であることを知ったときも、曹植はいっこうに落胆の色を示さなかった。


 そればかりか、鄴を去る前に卞氏から言いわたされたとおり、曹植は産後一か月のあいだ、妻のことをいつにもまして壊れやすい繊細な磁器のように扱い、出産前にもまして滋養に富むものを食べさせては日々具合を尋ねてくれた。

 本当は赤子のいとけない寝顔のほうに心が引かれていたかもしれないが、それでも妻の回復を案じる表情は真摯だった。


 今回の出産は、もちろん崔氏は世の母親たちと同じく生命を賭すつもりで臨んだものの、実際のところ初産にしては比較的短時間で済み、大きな難儀もなかったといってよい。

 崔氏が自分を幸運だと思うのは、父母から授かったそのような体質や体格を含めてのことでもあった。


 そのように、結果からいえば通常に比べて軽いほうのお産でありながらも、妻の破水を知った後の曹植の焦燥は相当なものであったらしい。

 出産からまもなくして妻と赤子に引き合わされた曹植は、むろん喜色に染まってはいたものの、赤子の顔を見るよりも前に崔氏の手を握った。

 分娩でやつれた上に汗で汚れた顔をできるだけ見られたくなかった彼女はそれまで目を伏せがちだったが、思いがけないほど強い夫の握力に驚き、はっと目を上げた。


「そなたを失ったら、どうしようかと思った」


と曹植はぽつりと言った。

 その一瞬のことを、崔氏はずっと忘れられないでいる。


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