(二)予感
(―――やはり、あの者への傾倒は甚だしいようだな)
文辞に優れる友人たちのなかでも、曹植は楊脩に対する思い入れが人一倍強いようだということは、曹操もかねてから知っていた。
楊脩は公的な身分としては丞相府の主簿、つまり曹操の属僚のひとりであり、上司の目からみても、若い世代のうちで際立って有能な官僚である。
曹植が彼と知り合ったのはごく近年であり、曹植の幼な友達ともいえる丁兄弟よりはるかに短い期間しか交誼を結んでいないにもかかわらず、曹植にとってはおそらく友人たちのなかで最も親愛を感じている相手であろうことは、曹操の目にも見てとれた。
しかしそれ以上に楊脩の存在を際立たせているのは、かねてより今上帝の信任厚く、先年三公の一たる太尉の地位に昇った楊彪の子息であるという―――すなわち「四世太尉」こと弘農楊氏の嫡系という出自であった。
(楊文先か)
すでに致仕して久しい楊脩の父の面影をその字とともに思い出し、曹操は少なからず苦い思いになった。
しかしその子息を丞相府に取り立てたのは、ほかならぬ曹操自身の意向であり、曹植と楊脩の交友関係を咎めるほどの根拠もなかった。
実際、彼らの間に交友があること自体を苦々しく思っているわけではない。
曹操の見る限り、曹植より二歳だけ年長の楊脩は、何世代にもわたる碩学の家の薫陶を受けて博学多識に育った貴公子というだけでなく、頭の働きが白刃のように鋭敏な青年であり、曹植とはまた別の天才型といえる。
そしてそれでいながら、ごく自然な謙譲と融和の態度で知性をくるむ品位があり、いわば、人から敬愛される要素を一身に具えている。
世間から称賛の的になる楊脩の属性のなかでも、楊彪の子であるという点―――さらに言えば、名族汝南袁氏こと袁紹の姉妹を母に持つ点―――は曹操にとって無視できないが、文人として曹植に好ましい啓発を与えるであろうという点では、曹操も期待するところが大きかった。
「―――“嗟夫 吳の小夷、川阻を負いて廷せず”」
「まさしく、それです。
“肇 め 天子の公に命ずるや、九伯を総べて是に征す―――”」
父の詠じた後を引き取り、曹植も朗々と口ずさみかけた。
だがその句まで至るとふいに止まり、少しのためらいを見せてから、思い切るように言った。
「許都におわす皇帝陛下も、江東からの捷報を待望しておられることと存じます」
「そうだな」
「父上が漢臣として南方を平定し、漢朝の威光に服せしめるのは―――漢朝の名のもとに太平の世を取り戻すのは、文若どのの念願でもありました」
いまは亡き荀彧の字に言及した息子の顔を、曹操は正面から見返した。
曹植は一瞬はっとするような表情を浮かべたものの、しかし臆さずにつづけた。
「父上がその大業に心おきなくご専念なされるように、俺は必ず、諸将の助言をよく受け入れ、後顧の憂いなきように鄴を守り抜きます」
「信じたぞ」
その一言だけを告げ、曹操は曹植に退いてよいと手振りで命じた。
曹植はまだ何か言いたいことがありそうに見えたが、結局口をつぐみ、丁重な礼を捧げて後ずさった。
(漢臣として、か)
曹操はひとりごち、鄴城外に参集する軍列のことを改めて思った。
ときに凱歌の声をあげ、ときに戦火から逃亡し―――多くの者たちを泉下へと見送り、自らも幾度となく死線をくぐり抜けながら、彼が生涯をかけて築き上げてきたものであった。
「あの、父上」
目を挙げて見れば、曹植が扉のところまで戻ってきていた。
「どうした」
「ご出立前に、もう一度、うちのむすめにお会いになりませんか。
目もしっかり開くようになって、本当にかわいいです」
扉のすぐ傍らに立つ衛兵らは啞然とした顔で曹植を見ていたが、曹操はただ苦笑し、
「早く行け」
と目を細めたまま追いやった。
(最後まであいつらしいわい)
他の者がこれほど場違いなことを言い出せば、曹操は苦笑どころではすませなかったであろう。
しかし、こと曹植の振る舞いとなると、そのすべては偽らざる真情から発しているのであろうと信じられるだけに、怒る気になるどころか許そうと思えるのであった。
今月に入って生まれたばかりの曹植の長女には、彼から出生の報告を受けた直後に、曹植の母卞氏を伴って曹操も会いに行ったことがある。
卞氏はその後も三男夫妻を熱心に訪ね、 赤子とその生母である崔氏の様子に心を配ったようだが、曹操の訪問はそのとき一度きりであった。
当然ながら、まだ目も開かない新生児の容貌は特徴があるともないとも言えないものであり、かつ女児であるということで、
(ともあれ無事に生まれたな)
という以上の感想は持たなかった。
曹操にとって意外であったのは、曹植は念願の第一子が女児だったためにもっと落胆しているかと思ったら、それほどでもなかったということである。
まだ正装をする余裕もなく寝衣のまま閨の帳の奥で横になっている崔氏には曹操はさすがに面会せず、曹植を介してねぎらいを伝えるだけですませたが、赤子を抱く卞氏ひとりを伴って閨の帳に入っていった曹植が、
「父上母上もたいそうお喜びだ。そなたは本当によくやってくれた。
季珪(崔琰)どのご夫妻もさぞかし、そなたが無事でいるのをご覧になりたいだろう。じきにおいでになるからな」
と感謝に満ちた声で崔氏に語りかけているのは、帳の外にいる曹操の耳にもたしかに聞こえてきた。
崔琰夫妻は崔氏にとって叔父叔母ではあるが、両親同然の育ての親であり、婿である曹植もまた、妻の実の父母に対するのと同じように彼らを敬重していることは、その声からも伝わってくる。
(正室とその実家をおろそかにしないのは、悪しきことではないが―――)
一般論として、正式な妻を遠ざけ妾やそのほか卑賎な女への寵愛を露わにするような振る舞いは、儒者が重んじる嫡庶の別を乱す非行として、妻の親族のみならず、世の士人たちの眉をひそめさせるものである。
それを思えば、愛児曹植が士人たちの支持を得られるような関係を妻との間に維持できているのは、曹操としては喜ぶべきことであった。
しかし彼は、帷越しに息子夫婦の睦まじい会話を耳にしながら―――若人らしく微笑ましいという思いよりも、なぜか、不祥なものを感じた。
そのときにうごめいた仄暗いものを―――青天に広がりだした暗い染みのようなものを、曹操はいま、息子の背中を見送りながら、ふと思い出したのであった。
(この分だと、子建の最初の男児を孕むのも崔氏であろうな)
それ自体は何ら問題ではない、はずであった。
かつて曹操の正妻であった丁夫人は、子をなせない身体であった。
その彼女が側室劉氏の長男曹昂を実子代わりに養育した例と違って、崔氏のように懐妊できる体質の正妻がありながら、側室が先に男児を生んだりすれば、後々事態が紛糾してゆく可能性を否定できない。
(子建の嫡長男はおそらく、季珪を外祖父同然に敬うようになる。―――)
赤子の声を遠く聞きながら、曹操はひとりごちた。
かつて芽生えたことのあるその予感が、いよいよ現実味を帯びてくるのを、彼はいつしかはっきりと、不快な思いでとらえていた。
補足:
楊脩は『後漢書』本伝の李賢注に引かれる『続漢書』の記述(死去時点で45歳)に準じて曹植より15歳年上説がよく知られていますが、拙作では『三国志』巻19陳思王植伝の裴松之注に引用される『世語』の記述(脩年二十五、以名公子有才能、為太祖所器、與丁儀兄弟、皆欲以植為嗣)に準じて、曹植より2歳年上説をとります。
また、曹昂の生母劉夫人は必ずしも側室と言い切れる史料はない気がしますが、ここではさしあたって側室としました。