◆覚え書き◆ 「野田黄雀行」あれこれ
「兄弟」篇までお読みくださった方々、本当にありがとうございました。
夏ごろまでに次の「伉儷」篇に入りたいと書いておきながら、もう八月が終わろうとしております……もし続きを待ってくださっている方がおられたら、大変申し訳ございません。
「兄弟」篇に関してはあまり補足することはないのですが(今後思い立って補足することはあるかもしれませんが)、ここでは、次篇から登場する楊脩に関連して覚え書きを挿入してみたいと思います。
ほとんど夏休みの自由研究みたいなものですが、常にぎりぎりまで宿題をやっていた往年を思い出す投稿時期であります。
タイトルに「あれこれ」と入れましたが、主に「野田黄雀行」のモデルをめぐる話になります。
曹植ファンの方は、楊脩や丁兄弟がたどる運命はよくご存じだと思いますが、本ページの内容は今後の拙作の展開と関わる部分もありますので、ネタバレNGな方は飛ばしていただければ幸いです。
曹植の著名作品のひとつ「野田黄雀行」は、中国古典文学のジャンルとしては楽府に分類されます。
中国古典文学の専門家による同作の日本語訳注はすでにさまざまに出ていますが、オンラインで読めるものとしては、柳川順子先生のこちらのページ(https://yanagawa2019.sakura.ne.jp/soushoku_product/05-02-%e9%87%8e%e7%94%b0%e9%bb%84%e9%9b%80%e8%a1%8c/)が大いに参考になるかと思います。
柳川先生の上記ページ解題にも紹介されているように、「野田黄雀行」の「雀」は丁儀・丁廙である、という説がよく知られています。
そして、「雀」が丁兄弟(とくに兄の丁儀)である場合、それを救出した「少年」は曹植である、と想定されることが多いです。
たしかに、「少年」に関しては、曹植が自身の願望を仮託したものと考えると、「利剣 掌に在らざれば、友を結ぶに何ぞ多きを須ひん」という句に象徴される哀感の深さに納得できるところが多いのですが、「雀」は丁兄弟もしくは丁儀と解するのが最適なのでしょうか。
研究者同士の議論だとどうなのかはさておき、日本の曹植ファンや建安文学ファンの間で「野田黄雀行」の「雀」=丁儀という説が広く知られているのはやはり、日本語で出された曹植作品訳注集としては最も普及しているであろう『中国詩人選集3 曹植』(岩波書店、1958年)において、著者の伊藤正文先生が、「野田黄雀行」の注釈のなかで「雀」=丁儀説を紹介されているからだと思います(他方、「少年」についていかなる説があるかについては言及されていません)。
しかし、伊藤先生の注釈においては「いつ誰が「雀」=丁儀説を初めて提唱したのか」と明確には述べられていません。
気になって色々調べてみたのですが、結論からいうと、清末民国期の学者黄節が最初ではないかと思います。
この見解が正しいとすれば、千年以上綿々とつづく曹植作品解釈史においては、かなり最近の説だと言えます。
1873年生まれの黄節は北京大学や清華大学で教鞭を執ったほどの碩学で、多くの古典文学関連著作がありますが、曹植作品に関しては1928年に『曹子建詩注』を上梓しました。
「野田黄雀行」は『曹子建詩注』では巻二に収録されていますが、その注[八]に
「案『魏略』曰、“太子立、欲治丁儀罪、轉儀爲右刺姦掾、欲儀自裁。而儀不能、乃對中領軍夏侯尚叩頭求哀、尚爲涕泣、而不能救。後遂因職事、收付獄殺之”。詩中籬間雀、疑即指儀、少年疑即尚。當儀之求哀於尚、而涕泣、猶少年之悲雀也。植爲此篇、當在收儀付獄之前、深望尚之能救儀、如少年之救雀也。姑備吾説、再考之」
とあります。
上記の冒頭にある『魏略』佚文(太子立……殺之)は、『三国志』陳思王植伝の本文「文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口」に対する裴松之注に引かれている文章です。ゆえに同伝を読まれた方にはおなじみの情報ですが、その部分も含めて試みに訳してみたいと思います(適宜改行します)。
「調べてみると、『魏略』には、“太子(曹丕)が即位すると、丁儀の罪を罰したいと考え、彼を右刺姦掾に転任させ、自殺させようとした。しかし丁儀は自殺できず、中領軍夏侯尚に向かって叩頭の礼をとり憐れみを乞うたが、夏侯尚は彼のために涙を流したものの助けられなかった。そののち(丁儀は)職務にかこつけて捕らえられ、投獄されて殺された”とある。
この詩※で“籬間雀”と詠われているのは、おそらく丁儀のことであり、“少年”はおそらく夏侯尚のことである。(『魏略』で)丁儀が夏侯尚に憐れみを垂れてくれるように乞うたが、(夏侯尚は)涙を流すばかりであったというのは、“少年”が“雀”の運命を悲しむがごとくである。曹植がこの作品を作ったのは、丁儀が獄に送られる前のことであろう。(曹植はもはや自分の力では丁儀を救えないので)夏侯尚が丁儀を救うことを強く望んでいたが、それは(本作品の)“少年が雀を救う”さまのごとくである。さしあたりこの自説を記しておくが、いずれまた検討したい」
※「野田黄雀行」はふつう楽府に分類されますが、黄節の原文では「詩」と呼んでいます。
以上のように、黄節は「雀=丁儀」説および「少年=夏侯尚」説を「自説(吾説)」であると明言しています。
『曹子建詩注』における黄節は、各作品に注釈をつけるに際して先人の見解を引用する場合は「○○曰」と述べ、その説の提唱者を必ず示しています。
つまり、ある見解を誰が最初に唱えたかという、学説の出所や系譜といったものを決しておろそかにしません。
その点に鑑みても、「雀=丁儀」説および「少年=夏侯尚」説に関しては、「既に先人がそれらを提唱していたのにもかかわらず、黄節が自分の考案であるかのように装った」ということはおよそ考え難く、かつ、黄節ほどの学者であれば、彼の時代において入手できる曹植関連の各種文集や歴代の注釈書は網羅的に入手していたと思われるので、「過去に同じ説を唱えている人がいるとはつゆ知らず、あたかも自分が最初の提唱者であるかのように錯覚していた」ということも考えづらいです。
するとやはり「雀=丁儀」説および「少年=夏侯尚」説は黄節のオリジナルであって、彼より前に遡ることはできないということになるのではないかと思います。
念のため、(民国期以前の)曹植関連の文集や注釈書のなかで「野田黄雀行」にどのような解釈あるいはコメントが付されているかというと、筆者が確認できた限りでは下記のような感じです。
[明]張溥編『漢魏六朝一百三家集』一百十八巻 巻二十七曹植集「野田黃雀行」本文の後:
『談藝録』云、氣本尚壯、亦忌鋭逸。魏祖云「老驥伏櫪、志在千里。烈士暮年、壯心不已」、猶曖曖也。思王「野田黃雀行」、譬如錐出囊中、大索露矣。
→『談芸録』というのは、20世紀の著名な中国古典学者銭鍾書にも同名の著作がありますが、ここで引かれているのは明代の徐禎卿という文人が古詩を論じた書物のようです。引用者である張溥自身は「野田黃雀行」に対してとくに解釈を示していません。
[清]丁晏撰『曹集詮評』(1865年):巻五に「野田黄雀行」本文を載せるのみ
[清]朱緒曾撰『曹集考異』(金陵叢書の一部として刊行されたのは1914年):
●巻六「野田黃雀行」タイトルの後の解題:郭茂倩『樂府』瑟調曲與「置酒高殿上」倶爲「野田黄雀行」二首。胡應麟『詩藪』、“子建「野田黄雀行」、坦之云、詞氣縱逸、漸遠。漢人呂穀云、錐處嚢中、鋒穎太露”。然此詩實翩翩堂前燕、非十九首辭也。
●巻六「野田黃雀行」本文の後:
『文心雕龍』隱秀云、“陳思之「黃雀」・公幹之「青松」、格高才勁、而並長於諷諭”。此與「鷂雀賦」同意。朱乾云、“自悲友朋在難、無力援救、而作猶前詩。久要不可忘句意也”。前以望諸人、此以責諸己。風波以喩險患、利劍以喩濟難之。效『楚策』荘辛曰、“黃雀俯啄白粒、仰栖茂樹、鼓翅奮翼、自以爲無患、不知夫公子王孫、左挾彈、右攝丸、將加己乎十仭之上”。取義于此、大概在相戒免禍、故與「箜篌引」同。子建處兄弟危疑之際、勢等馮河、情同「彈雀」詩。但言及時爲樂、不言免禍、而免禍意自在言外。漢鼓吹鐃歌「黃雀行」亦此意也。
→『曹集考異』はおそらく金陵叢書の刊本しか流通しておらず、筆者が勝手に付した標点が上記のとおりでいいのか自信がないですが、朱緒曾は少なくとも「野田黄雀行」制作の背景を、曹植が当時実際に置かれていた状況、つまり兄から疑われている危険な状況に結び付けて解釈していることは確かなようです。ただし、やはり「雀=丁儀」および「少年=夏侯尚」とは述べていません。
[民国]古直撰『曹子建詩箋』(層氷艸堂叢書の一部として刊行されたのは1928年):
●巻三「野田黃雀行」タイトルの後の解題:此篇瑟調曲
●巻三「野田黃雀行」本文の注釈:
「高樹多悲風、海水揚其波」の句に対し「張衡「西京賦」“長風激於別島、起洪濤而揚波”」
「見鷂自投羅」の句に対し「『爾雅』“鷂、負雀”。郭注“鷣、鷂也。善捉雀、因名云”。『説文』“鷂、鷙鳥也”」
「黃雀得飛飛」の句に対し「『方言』“自關而西秦晉之間、凡取者之上、謂之撟捎”。『説文』“捎自關已西、凡取者之上者、爲撟捎”」
本文の最後に「『文心雕龍』隱秀篇 “陳思之「黃雀」格高才勁長於諷諭”」
→本書は『詩箋』というだけあって古来の訓詁や評語を集めて示すのが主であり、古直自身の解釈は付されていません。
以上のように、やはり黄節の『曹子建詩注』刊行以前に「雀=丁儀」あるいは「少年=夏侯尚」という説を唱えた例はないようです。
ということで、筆者の結論としては、「雀=丁儀」説は民国期になってから出てきたもので、しかも提唱者である黄節自身も「また検討したい(再考之)」と書いているように、別に確信を持っているわけではなかった、ということかと思います。
だからというわけではないのですが、個人的には、「野田黄雀行」の「雀」のモデルを敢えて挙げるとすれば、やはり曹植にとって別格の親友である楊脩ではないかと思います。
今後の拙作の展開でも、曹植の友情はほぼ楊脩を中心に描くことになる予定です。
(崔氏や崔琰を主人公サイドとする拙作のような小説では、丁兄弟とくに丁儀を善玉として書きようがないのは、正史を読んでおられるかたにはよくお分かりかと思います……)
曹植と雀つながりで言えば、有坂文さまのこちらのブログ記事もとても読み応えがあるので、ぜひご覧になってみてください!
雀行きて食を求む
http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-78.html
「野田黄雀行」あれこれ・完