春日遅遅(四)
「―――子建さま」
どうした、と言いかけた曹植は、妻の瞳にこもる熱に驚いた。
黒い双眸だけでなく朱い唇も心なしか潤っており、何かを待ち受けるように、ほんの少しだけひらいている。
夫婦として睦みあう閨の帳の外で、こんな表情はめったに見たことがない。
室内に侍女がいないことを、彼は一瞬だけ目線で確認した。
そして、さしたる抵抗も受けずに、唇を長く重ねた。
そのあいだ崔氏が考えていたのは、だいぶ別のことであった。
(いまが、申し上げる好機かもしれない)
どんな形であれ夫と触れ合うときは喜びに満たされるのが常でありながら、いまこのときは冷静に計算している自分のことが、ひどく不思議でもあった。
(いまお願い申し上げたら、子建さまは兄さまを―――位階のある正式な属僚は無理でも、近侍のひとりとして取り立ててくださるかもしれない)
夫は昨日のことで自分に負い目を感じており、実際に詫びるまでに至った。
願いごとを聞き入れてもらうには、これほどの好機はないといえる。
公孫氏出身の「兄」は自身の非才を自覚し受け入れていること、そして立身出世の野心も抱いてないことは、崔氏もよく分かっていた。
だが、その父親は天下の大儒鄭玄に師事していた以上、公孫家は本来学問をする家柄であり、もし「兄」の代にふつうの農家に同化していくとしたら、それは没落を意味する。
かといって、官に就いていない者が家産を維持し拡大していくのは、決して容易なことではない。
列侯夫人の身となり、しかも夫の第一子を身ごもったいま、愛する人びとを援助する道を拓こうと思えば拓くことができるのに、それをなさずにいるのは―――
そこまで思いつめた末に、崔氏はようやく、心の中で首を振った。
かつて、婚礼の直前、王経の将来について考えたときと同じ結論だった。
故郷清河でともに農事に務め学業の手ほどきもしてきた少年王経は、崔氏にとっては弟同然の存在で、しかも明らかに有望な資質をそなえていた。
そんな彼に格別に目をかけて幼いうちから取り立ててやってほしい、と曹植に懇願すること―――結婚後の彼女はそうすることが可能だったが、ついにそうしなかった。
権力の中枢に近づくからこそ、私心を忘れて公正であれ、という、叔父崔琰と族父崔林から与えられた訓戒を守ったのだ。
今回もやはり、それを堅く奉じなければならないと思った。
「子建さま」
ようやく顔を離したとき、互いの息はかすかに熱かった。
崔氏はそれを感じつつ、意識してきっぱりした声を出した。
「お願いがございます」
「何か」
「わたくしはまだ、橘を食したことがございません。
子建さまは、江南ですでに召し上がりましたでしょう。
剥き方を見せて、食べさせてくださいませんか」
「ああ、そんなことか」
軽やかな、しかしやや拍子抜けしたような声で曹植は応じ、橘の籠を手にもつと、室内の明るく暖かい場所へ席を取るようにいざなった。
正月二日めという新春早々にしては暖かい、陽光がよくゆきわたる午前であった。
白々と照り光る欄干越しに、中庭の草木が少しずつ芽吹いているのを見て取ることができた。
青々しく繁茂して地に影を落とすようになるまで、さほど時を要さないだろう。
(あれは、どうするかな)
厨房に運びこませた籠の中身のことを思いながら、曹植は日差しに目を細めた。
朝がた曹彪の房を出た後、帰邸する前に、彼は鄴の市に人をやって橘を買い求めさせたのだった。
冬から初春にかけての旬の季節でさえ、橘は華北の地でなお珍重される品とはいえ、魏公の親族や列侯くらいの立場であれば、懐がひどく痛むというほどの出費ではない。
曹植はもともと衣食や車馬において奢侈を尽くすことに関心がないので、高級な嗜好品を食卓に載せるようなことをこれまでしてこなかった。
身重の妻から「これが食べたい」という求めがあれば何でも応じるつもりではあったが、妻は妻で、実家の叔母や族母たちがみな普段の質素な食事のみで出産まで乗り切ったのを見てきたためか、そういったことを言いだした試しがない。
それ自体は、万事に倹約を重んじる父曹操の方針と家風によく合致しており、正しいことではあった。
だが曹植は今回、己の振る舞いにより妻を失望させたと自覚したことで、
(やはり、贅を凝らしてでも喜ばせたい)
という気持ちのほうがまさった。
思い浮かんだのは、昨年の仲夏に銅雀園で一緒に白い花をみつけた橘であった。
鄴に根づかせて実をつけさせることには失敗したが、中原と江南を結ぶ流通網は細々とではあるが機能しており、江南で育てられた産品が鄴など華北に持ち込まれること自体は皆無ではない。
殊に冬場は傷みにくいので、青果の取引には向いている。
試みに鄴の市で探させてみると、たしかにあるところにはあった。
妻の「兄」はおそらく清河の近辺に、少なくとも冀州に在住しているであろうから、相当に困難を経て幾ばくかの橘を入手したのだと思われるが、どう見ても自分が鄴の市で買い求めたもののほうが大ぶりで見栄えがよかった。
売り主の口上が正しければ―――よもや曹家の公子に二流品を売りつけることはないだろうから―――味も格別に甘く涼やかなはずである。
いまは厨房の者たちによく磨かせているので、橙色にいっそう艶が出て目を楽しませることだろう。
だが、あの華々しい一山をいまこの場へ持ち込むことを、曹植は結局あきらめることにした。
「兄」が精いっぱい用意してくれたささやかな橘とそれを並ばせることを、妻は喜ばないだろう、ということを、今回はあらかじめ予見できたのだった。
仮にこの顛末を曹彪に話したならば、
「子建兄上も半日にして成長しましたね。僕のおかげですか」
としたり顔で言うのが目に浮かぶようであった。
(―――まあ、世話になったことだし、いくらかはあいつに分けてやってもいいか)
と思いつつ、崔氏には日を改めて厨房の橘を贈ることにした。
「どれからがよいかしら。子建さま、お分かりになりますか」
問いかけられて、曹植は改めて目の前の橘をみた。
甘い香りを放つ一山から、比較的やわらかそうなものをひとつ手に取った。
「熟れていそうだから、これにしよう。
橘には外と中の皮があるが、どちらも刃物がなくても剥ける」
「そうなのですか」
「外皮は少し硬い場合もあるが、―――ほら、手で取れた」
「まあ、まことに……中には白い膜のようなものがあるのですね。薄皮かしら」
橙色の覆いの下から現れた、先ほどよりもさらに濃密な甘い香りを放つそれを、崔氏は興味深く観察した。
「これはこのまま食べられないこともないが、取り去るともっと口当たりがよい」
そう言ってひと房の薄皮をすっかり剥き除くと、瑞々しい橙色の果肉を妻の口元に近づけた。
「ありがとうございます」
崔氏は素直に受け止め、自分の口に入れると、ゆっくりと賞味した。
ほかの果実ではかつて味わったことのない、目の覚めるように涼やかな甘酸っぱさが口に広がったのであろう。双眸を大きく瞬いた。
「―――とても、おいしいです。
身重ゆえそう感じるのかもしれませんが、これほどの美味が世の中にはあるのですね」
自制しがちな彼女にしては珍しいことに、感激がきわまったような面持ちさえ浮かべ、顔を上気させていた。
曹植はそれをみて、正直なところ、
(俺が贈ったものでこれほど喜ばせられたら、もっとよかった)
と思った。
だが妻を現にここまで喜ばせたのは「兄」の功績であり、この表情を引き出したことには感謝すべきだな、とも思った。
そしておそらく、妻をもっと喜ばせられる方法があると気がついた。
「その、そなたの“兄さま”に」
「はい」
「俺から何か、してやれることはあるか」
崔氏は一瞬静止したが、じきに笑顔を浮かべて首を振り、
「寡欲なひとなので」
と言った。
閉ざされた唇が、果汁の潤いを含んだままかすかに光っていた。
曹植はふと顔を寄せ、甘露を分かち合うように、しばし同じ香りのなかに溶けた。
室内に流れ込む春光が、ふたりをゆっくりと温めていた。
後年、漢魏革命を経て、曹植の立場は漢臣から皇弟へと変化する。
清河崔氏一族およびその縁者たちは、かつての姻戚たる彼から格別な恩顧を受けなかったことを―――彼と特別な紐帯を持たなかったことを、むしろ幸運だったと思うようになる。
春日遅遅・了
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
このあともまた短編は不定期に書くかもしれませんが、本編のほうはやはり夏ごろになるかもしれません。
補足:
崔琰は姪(曹植の妻)を自分の手で養育していた、という設定は、拙作を含め曹植関連のフィクション作品ではありがちなのですが、実際のところはどうだったか分かりません。
一方で、公孫方と宋階という友人が早くに亡くなったため、 崔琰はその遺児らを我が子同然に愛育した、というのは『三国志』本伝に記載されています。
とくに公孫方のほうは、 若いときの崔琰と友誼を結んでから鄭玄のもとへ一緒に入門した、とあるので、かなり深い親交があったとみられます。
そしてそういえば、清河篇の最初のほうで崔氏について「生まれてこのかた親族や使用人以外の男性に自ら話しかけたこともない」のような書き方をしましたが、今回 (言及のみですが) 登場した公孫氏のお兄さんは親族に準じる存在ということでご容赦ください……