春日遅遅(三)
曹植が臨淄侯邸に帰着したとき、崔氏は織機の前にいた。
新年とはいえ、いちど他家に嫁いだ婦人は、自由に実家に帰れるわけではない。
また、崔氏はいま身重でもあるので、元日だった昨日はともかく、今日以降は、曹家の婦人たちが集って懇親する酒席に出ることを控えるのも無理はなかった。
新年を迎えるための特別な衣食のしつらえは年末までに終えているから、正月二日めのいまは平常どおりの務めを―――主に赤子を迎えるための準備をしているだろうということは曹植も予想はしていた。
奥向きをつかさどる年配の侍女から妻の所在を聞かされたとき、曹植は、
(どうも、父上が丁夫人を迎えにゆかれたときの状況に似ているな)
と思った。
丁夫人は曹操の最初の正妻であり、彼女がいたころは、曹植の生母卞氏は曹操の妾のひとりに過ぎなかった。
正妻として卞氏に厳しくあたっているときの彼女を、幼い曹植はむろん好きではなかったが、そのときの感情よりむしろ、丁夫人が育て上げた曹操の長子であり曹植にとっての異母兄である曹昂を亡くした後の、前後を忘れたような彼女の悲嘆ぶりのほうを鮮やかに記憶していた。
曹昂は庶出の弟妹に対して面倒見がよく、曹植も彼を同母兄同様に慕っていたので、その早すぎる死は幼い身にとっても衝撃が大きかった。
しかし、当時は何しろ数え六歳だったので、死というものを正しく理解できていたとはいえない。
どちらかというと、周りの大人たちが―――とりわけ丁夫人が別人のように憔悴するのを目の当たりにして、
(これは、取り返しがつかないことなのだ)
ということを徐々に悟っていったように思う。
そして、取り返しがつかないという意味では、曹操と丁夫人の破局も同様であった。
当初は、丁夫人から曹昂の死の原因を責められつづけてついに耐えかねた曹操が、彼女を実家に帰したのであった。
そうやって頭を冷やせばいずれ平静を取り戻すだろう、という見通しを持っていたのだろう。
だが、曹操自らが丁家へ迎えに出向いたとき、たまたま機織りをしていた丁夫人は、曹操に背中を撫され、何度も呼びかけられてなお、織機に向かい合ったまま、いちども振り向かなかった。
(父上がいちばん愛しておられたのは、あのかただったのかもな)
むろん子の立場としては、自分の生みの母卞氏こそが父から最も愛されていてほしいと思うが、事実として、父に対しあそこまでの態度をとってなお許される婦人が他にいるとは曹植には思えなかった。
取り返しがつかないことをした、という事実を、曹操は最後には受け入れざるを得なかったのだ。
(取り返しがつかない、―――)
今回の書簡をめぐる件はむろん、人の生き死にが関わっているわけではない。
だが、妻が自分から寝室を別にしたいなどと言い出したのは、結婚以来初めてだった。
曹植が魏公の子息で崔氏は魏公の臣下の親族であるという、明らかに非対称な地位関係がたとえなかったとしても、一般に夫婦の間において、妻の側から離婚を言い出すことはできない。
だが、夫に対し心をひらくか閉ざすかは、むろん妻にしか決めることはできない。
(取り返しがつかないことになる前に、詫びるべきだな)
そう自らに言い聞かせ、崔氏のいる室へ向かった。
曹操を迎えたときの丁夫人と違い、織機の前の崔氏は背を向けたままではなかった。
入室した曹植に対し立ち上がり、「お帰りなさいませ」と言って通常の礼も捧げた。
表情も声も普段のように抑制されているので、怒っているのかどうか、見た目ではよく分からなかった。
「産着用の布か」
分かりきったことを言ってしまった、と自分でも思いながら、曹植は話の接ぎ穂を探した。
「正月からそれほど根を詰める必要はあるまい。
去年から何枚も織っているのだから、もう十分に備えはあるのではないか。
生まれてから足りなくなったら、買い求めればよい」
「ありがとうございます。
ほどほどに、休息を取っております」
「昨日のことだが」
それまで目を伏せがちだった崔氏が初めて視線を上げた。
「俺が悪かったと思っている。
他人の文章に、あんなふうに手を加えるべきではなかった。
まして、そなたが、その、―――大切な家族から受け取った書簡だ。二度としない」
崔氏はしばし静止していたが、夫の表情の真摯さを見て取ると、ゆっくりとうなずいた。
「―――おことば、承りました」
詫びを受け入れてくれるか、と曹植は安堵しかけたが、彼女はつづけた。
「ですが今後は、ご自分が恵まれた身の上でいらっしゃることを、忘れていただきたくないのです。
天与のご才質のことだけを申しているのではありません。
昨日は申し上げませんでしたが、公孫の兄さまは―――兄は孤児になってから、季珪叔父に捜し出されて我が家に引き取られるまでの間に、酷薄な親戚のもとで何年も冷遇を受け、しばしば下僕同様の扱いを受けておりました。
ですからそもそも、幼少時に教育を受ける機会が多くありませんでした。
我が家に来て初めて、まとまった学びの機会を得たのです」
「―――そういうことか」
「いまは叔父の手配で妻帯し、いくばくかの農地も経営しておりますが、余裕のある暮らしというわけではありません。
そんななかで兄は、年始の挨拶に寄せる形で、わたくしの慶事のために書簡で祝辞をくれたのです。―――これも、贈ってくれました」
そう言って崔氏が指し示したのは、織機の脇に置かれた小さな籠とその中身―――橙色の丸い果実の一山であった。
「―――橘か」
冬を越したばかりとはいえ、江南を遠く離れたこの地では、橘はいまなお非常に高価な品である。
小粒だったり傷物だったりするために値崩れしたものをどうにかして入手したのだという努力の痕跡が、果実そのものから見て取れた。
機織りには必要ないのにここに置かれているというのは、妊婦たる妻にとってその香りが好ましいのか、あるいは単に、視界に入れておきたいということかもしれなかった。
「そなたの兄は、身重のそなたがほしいだろうと思うものをわざわざ贈ってくれたのか」
「はい」
「ならばなおさら、すまぬことをした」
「そのことはもう、よろしいのです。
―――子建さまが兄の書簡を添削なさったことは、むろん兄には伝えません。
わたくしたちの間だけの秘密です」
崔氏はささやくように夫に告げた。
その表情は、いつのまにか和らぎを取り戻していた。
ふたりの間の空気も、どこか春の温みを帯びてきたようであった。
「そうだ、そういえば」
空気の変化に背中を押されたのか、曹植は、さも偶然に思い出したといった調子で―――つまり、いかにも不自然な調子で、話題を変えた。
目線も心なしか、宙を泳いでいた。
「その、―――そなたの“兄さま”というのは、どんなふうだ」
「え?」
「いや、別に他意はないが、その、―――季珪どののような男か。
つまり、背が高くて、威厳があって、誰もが振り向く美男というか」
崔氏はぱちぱちと目を瞬いた。
「兄とは近年は直接まみえておりませんので、確実なことは申せませんが……外見は叔父とはずいぶん違っております。
血のつながりはございませんので」
「そうか、それはそうだな。―――で、どういう感じなのだ」
「そうですね。―――たまに郊外の野辺に出るとき、平和に草を食む牛を見かけると、兄を思い出します」
「牛!?」
「体格は中肉中背ですけれど、顔立ちも表情も動作もおっとりしていて、本当に穏やかなひとで……争いも好まないので、雄牛などよりもっと穏やかかもしれません」
「お、おう」
「それと、先ほど、兄には幼少時に教育を受ける機会が乏しかったと申し上げましたが、必ずしもそれだけが原因というわけではなく、―――その、物覚えのほうもいくらか、おっとりとしていて」
崔氏は少し間を置いた。
「昨日は子建さまに、兄とわたくしは書物を読み合って教え合う仲だったと申し上げましたが、実際にはわたくしが主に教える側でございました。
だから、五つ年上の兄の名誉を思うと、話しづらかったのです」
「―――そういうことか」
「ですが、早くから苦労を積んだこともあって、ひとの痛みが分かる、心優しいひとです。
わたくしも従弟たちも兄のことが大好きで、我が家の使用人も含め、だれも悪く言う者はおりませんでした」
「そうか。それは信じる。
余裕があるわけではない暮らしのなかで、そなたのために手を尽くして橘まで手に入れてくれたのだ。
善良な、思いやり深い兄なのだろう」
「そのとおりなのです」
かつての温かい思い出に包まれたのか、崔氏は口元をほころばせた。
しかしそれも束の間、ふと何かに思い至ったかのように、表情が若干の緊張を帯びたものになった。
そしてその表情のまま、夫のほうに一歩近づいた。
補足:
史実では、橘(あるいは「黄甘」)は後漢末より200年以上あと、南北朝時代においてさえ南朝から北朝への公式な贈答品として用いられるほど珍重される果物だったようです。
それを考慮すると、江南の開発がまだあまり進んでおらず生産力も低い後漢末においては、華北の人々にとって橘はなおのこと希少品で、民間人が入手するのは実際には極めて難しかったと思われます。本作はあくまでフィクションということで……
ネットで読める論文としては、堀内淳一先生の「馬と柑橘:南北朝間の外交使節と経済交流」(『東洋学報』88-1、2006年)などがこのテーマを扱っています。