春日遅遅(二)
「それは、子建兄上が悪いです」
「そうなのか?」
昨晩妻に向けたのと同じ、実に納得できないという顔を曹植は曹彪に向けた。
四つ年下のこの弟とは昨日、父曹操が魏公の宮殿の堂で催した宴にて同席したばかりだが、正月二日めの今日は、朝早くから弟の房を予告なく訪れたのであった。
まだ妻帯していないので、そのぶん遠慮が要らないということもある。
「悪文であれ何であれ、義姉上と“兄さま”との間に不義を匂わせるような文面は、その書簡には一切なかったのでしょう」
「むろんだ」
「ならば、そのまま捨て置けばよかったではありませんか」
「いや、仮にも俺の妻が、あんなひどい文章を後生ありがたがるなどというのは、全くもって受け入れがたい」
「だから、格調高く書き直してやる必要があったと?」
曹植は黙ってうなずき、手に持った匙を自らの口に運んだかと思うと、
「熱っ」
とすぐ離した。
兄弟それぞれの座の前には案の上に碗が置かれ、香りのよい羹が湯気をたてている。
もともと曹彪が酔い覚まし用に啜ろうと思っていたところ、突然三兄が訪ねてきたので、厨房に銘じて急遽二人分作らせたのであった。
「作りたてなので、気をつけてください。
―――あのですね」
よく吹いて冷ました一口分の羹を飲み込んでから、曹彪は幼な子に言い聞かせるように話し出した。
「他人の文章というのは、頼まれてもいないのに直してはいけません。
これは大原則なので、覚えておいてください。
あと、とりわけ子建兄上の場合は、頼まれても直さないのが吉です。これも覚えておいてください」
「なぜ俺の場合はそうなのだ」
「悪意もなく、他人の矜持をぼろぼろにするからです」
「そんなことは―――」
「ありますよ。ついこのあいだの子廉(曹洪)叔父上のときもそうだったではありませんか」
「子廉叔父上?―――ああ、そういえば先日、自作の楽府を持ってこられたことがあったな」
曹洪は曹操の兄弟ではなく従弟だが、曹操の旗揚げ当初から付き従ってきた股肱の間柄であり、曹操の息子たちから見ても、単なる叔父以上に親しい交流のある親族であった。
長い軍歴を通じた数多の貢献に加え、蓄財を好んで曹氏一族のなかでも屈指の財力を誇ることでも知られる曹洪は、曹操のように武のみならず文のたしなみも深い、とは言い難いが、歌舞音曲を愛好することは曹操と同じであった。
とりわけ、宴席を盛りあげる意欲においては生来の吝嗇さもなりをひそめるところがあった。
その曹洪が年末に設けた宴の場で、何の弾みか分からないが、曹植の席に近づいてきたかと思うと、一篇の文章を取り出して見せ、「これを直してみよ」と朗々と言い出したのだ。
その場にいた曹彪は、
(ああこれは、叔父上の自信作なのだな)
と察し、曹植に目線で注意を喚起しようかと思ったが、既に遅かった。
叔父と同じく酒が十分に回っている曹植は上機嫌でそれを受け取り、侍臣に筆と墨を用意させると、さして長考することもなくさらさらと朱を入れ、そのままにこにこと曹洪に差し出した。
曹彪はちらと見ただけだが、ほぼすべての句に朱が入っており、別物に生まれ変わっていた。
誰がどう読んでも、生まれ変わりの後こそが秀作であることは間違いなかった。
「俺は頼まれたから直しただけだぞ。何か非礼があったか?」
心底不可解そうな声で曹植は言ったが、曹彪は首を振った。
「ああいうときは、手心を加えるというか、いいところを見つけて褒めあげるものなのです」
「ならば、叔父上もそうおっしゃってくださればよかったのだ。
そうすれば、俺も最初からそのつもりで拝読した」
「あのですね」
曹彪は首を振り、諦観を交えながら言った。
「あれは叔父上の自信作だったのですよ。
いいところを見つけて褒めてくれ、などとわざわざ言わずとも、自然と賛嘆を得られるに違いないと信じておられたのです」
「なぜ分かる」
「自作を最初に見せる相手として、ほかでもなく子建兄上をお選びになったのですから、”子建に見せても恥ずかしくない”とお考えだったのですよ。この意味が分かりますか」
曹植は匙を置き、集中して何かを思い出すような顔になった。
「―――だがあれは、習作も同然だったぞ。
てっきり、これから整えて完成させたいのかと」
兄上はいちど夜道で誰かに刺されたほうがいいのではないか、と曹彪はつくづく思いつつ、底が見えてきた碗の羹を匙で掬った。
「おかげであれ以来、子廉叔父上は他人に自作の文章を披露されることはなくなったようですよ。
それどころか、事務の手続き上必要な文書の起草すら、属僚に委託されるようになられたとか」
「そうなのか。そんなつもりはなかったのだが」
「兄上に悪気はないことは存じていますとも。
だが、兄上にとっては親切心のつもりでも、完膚なきまでに打ちのめされる人間は少なくないのです。
今後は、ぜひにと請われて文章を直す場合でも、相手がよほど文辞に長じた者でなければ、理由をつけて断るのが無難でしょう」
「そうか。
―――そういえばかねてより丁敬礼(丁廙)から、ちょっとした文章を書いたから彩ってほしいと頼まれていたのだが、あれも断ったほうがよいだろうか」
「敬礼どのぐらいの書き手であれば、兄上が手を入れてもそんなに打ちのめされないでしょう。
そのあたりの水準の見極めは、子建兄上こそ長けておられるはずだと思います」
そう言って曹彪は最後のひと匙を飲み込んだ。
「ともかく、義姉上に対しては、ご自分の非を認めてお詫びになることです。
もうあんなことはしないと約束して」
「―――わかった」
「お怒りが解けたら、義姉上に羹を吹いて食べさせてもらえるといいですね」
「うるさい」
そう言う曹植も、羹をようやく食べ終わった。
「突然騒がせて悪かったな」
「いつものことです」
「その、ことのついでに思い出したのだが―――」
曹植はふと口ごもった。
「俺はこれまで、おまえから見せられた詩文を、たびたび手直ししてきたよな。
おまえから添削を請われたときはともかくとして―――俺が勝手に直したときは、いま思うと、たしかに悪いことをした。
いまさらだが、謝る」
曹植には珍しく、実に神妙な表情と声音であった。
曹彪は意外の感に打たれ、しばし三兄の顔を見つめたが、ふっと笑い出した。
「詫びるとおっしゃるなら、受け取っておきます。
でも、僕はそんなに打ちのめされないたちなので、ご心配めされぬよう。
何より、父上の諸子のなかで、というより我が一族の同世代のなかで、子建兄上と子桓兄上は別格としても、十代の僕がそれなりに文名を上げているのは、幼いころから子建兄上に鍛えてもらったからだと思っていますよ」
「―――そうか」
曹植はいくらか安堵した顔になった。
「では、せっかくの年始だから、久しぶりに競作でもするか。
詩題は新春あたりで―――」
そう言って曹植が室内の筆と硯を目で探し始めたので、曹彪はにわかに慌てた。
「ちょっと待ってください。兄上と違って、僕にはそれなりに準備が必要なのです」
「準備? 何のだ」
首を軽くひねった三兄のようすを見て、曹彪は
(やはりいちど夜道で刺されるべきではないか)
という思いを新たにしながら、
「山ほどある典故とか押韻とか、そういうものの下調べですよ」
と言って立ち上がり、戸口のほうへ向かうと、兄のために扉を開けてやった。
「いずれにせよ、今夜も別の宴席でお会いするでしょうから、そのときまでには案を練っておきます。
それまでに、義姉上との御仲を修復されますように。
さもなくば、さしもの兄上といえど本調子が出ないでしょうから」
「―――そうだな」
曹植は子どものように素直にうなずき、促されるがまま房を後にした。
(義姉上とのことが、それほどに、こたえておられるのだな)
三兄の背中を見送りながら、曹彪はふたたび意外の感に打たれた。
自分こそ誰より親しい弟だと自負してきた三兄の未知の一面を見せられたことに、嫉妬にも似た歯がゆさをおぼえないでもなかった。
だがそれ以上に、心がどこか解けるのも感じていた。
曹植が崔氏と結婚した時点で曹彪はすでに十七だったので、当然ながら、嫂と親しく行き来する機会などなく、三兄の妻の人となりを深く知る機会はないまま今に至っている。
曹植のほうも、礼法に厳しい家から妻を迎えたことで士人らしい常識がそなわってきたというべきか、今回のような一波乱がない限りは家の奥向きのことに言及したりしないので、彼ら夫妻がどういう関係なのかということは傍からは明らかでない。
このたび崔氏が曹植の第一子を懐妊したという事実に鑑みれば、両者は険悪ではないであろうにしろ、
(果たして、婚前に思い描いたほど、うまくいっているのだろうか)
ということを、曹彪は曹彪なりに案じてはきたのだ。
だが、昨晩起こったのがいかなる事件であれ、三兄は妻を怒らせたり傷つけたりしたままでいたくないというなら、それはつまり、いまの彼は、大切にしたい相手とともに暮らせているということなのだ。
それはたしかに、弟として寿ぐべきであった。
補足:
曹洪は金銭問題で曹丕から恨まれていたことは有名ですが、曹植との間には目立ったエピソードはなく、自作の添削を頼んだ云々というのは拙作のフィクションです。
ただし曹洪は業務上の文書作成時に代作を頼むこともあったというのは本当で、その一例として、『文選』に、陳琳が彼のために執筆した書簡として「為曹洪与魏文帝書」が収録されています。
代作のおかげで『文選』に名を残せた男……
曹彪のほうは、以前「活動報告」でも書いたことがありますが、南朝梁の鍾嶸による『詩品』では曹操や曹叡と同ランクの「下品」に位置づけられており、六朝期を通じて文名が保たれるほどだったことが分かります。
(ちなみに曹植は上品、曹丕は中品に分類されています)
三曹のせいでどうにも霞みがちですが、曹彪もやはり、後漢末~三国期の人物という枠のなかでトップクラスの文人だったと言えるのではないでしょうか。
幼少時から三曹の薫陶を浴びつづけたという豪華な環境も、おそらく彼の文才の萌芽に大いに関連していると思われます。