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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟篇 余話(二)
122/166

春日遅遅(一)

本編のほうは間が空く予定でしたが、春節にちなんで短編を投稿します。

時系列上は、兄弟篇「(十七)胎動」の少し前にあたる話です。











「奥方さまへのお届けものです」


 そのことばとともに侍女が包みを差し出してきたのは、崔氏が義父母の住まい―――魏公の宮殿から戻ってまもなくのころ、元日の夕べであった。

 新年のならいとして、曹家の(よめ)の一人として義父母のもとへ挨拶に参上し、夫の兄弟とその妻子らとともに、祖宗の祀りに参列したのである。


 崔氏も当然、曹植に伴われる形で魏公の宮殿を訪ねたわけだが、帰路はひとりであった。

 曹植はそのまま残り、男性親族や臣下たちとの宴席に連なったからである。

 婦人には婦人だけで懇親する場もあったが、崔氏は身重ということもあり、早めに退出して臨淄侯邸に戻ってきたのだった。


 差し出された届けものは布でくるまれており、おそらくは籠状の容れ物に何かが盛られている。顔を近づけると、かすかに甘い香りがした。

 包みにはさらに、封のされた簡牘が添えられていた。

 おそらくは、送り主による書簡であろう。


「いつもご実家からお届けに来られるのとは別の方が、今日はおいでになっていました」


「まあ、そうなの。どちらのお家からの使いでしたか」


「公孫さまとおっしゃいました」


「公孫さま―――まあ」


 書簡のほうを先にひらいた崔氏は、一瞬目をみひらいた後、大きく破顔した。

 これは珍しい、と侍女が思うほど、咲きこぼれるような笑顔であった。






「戻ったぞ」


 その晩、軽い足取りで帰ってきた曹植のほうも、たいそう上機嫌であった。

 昼過ぎからのいくつかの宴席でずっと飲んできたに違いないため、むろん酒はよく回っているが、酩酊というほどではなく、左右の支えを必要とするわけでもなさそうだった。


 酒飲みの一類型として、曹植も酒が入るといっそう陽気になるたちだが、軍中にあった昨年の正月と異なり、今回は鄴で肉親や友人たちとともに新年を迎えられたことをまず喜んでいるのは間違いない。


 それに加え、旧年中に夫人が初めて懐妊したという慶事がいまや方々(ほうぼう)に広まり、宴の席上で多くの人々から口々に祝ってもらったがゆえに、これほど朗らかでいらっしゃるのだろう、ということは、帰邸を出迎えた家僕たちにも推測できた。





「遅くなってすまない」


 (ねどこ)に腰かけていた崔氏が顔を上げた。

 装束を改めてから夫婦の(ねや)にやってきた曹植は、いつもの習慣どおり妻の体調を尋ねかけたが、ふとこらえかねたように、その場に膝をついて妻の腹部に耳を近づけた。

 崔氏は驚き、押しとどめようとした。


「何をなさいます」


「何とは……胎動があるかもしれぬだろう」


「それは、あるかもしれませんが」


 人目がございます、と崔氏は声を落としていった。

 夫婦の閨とはいえ、まだ燭台の火も落としていないので、二、三の侍女たちは出入りしている。

 当然ながら、彼女たちは何も見ず何も聞こえなかったように自分の作業をしていた。


「人払いをすればいいのだな」


「それと……(とばり)を下ろしてからでしたら」


「帳か。却ってやましいことをしていると思われるぞ」


 いくらか呆れたような夫の声にも、崔氏は耳を貸さなかった。

 曹植はやれやれと受け入れ、帳を支度してから下がるようにと侍女たちに命じた。


 文字通りふたりきりになった牀の上で、帳越しに淡い明かりを浴びながら、曹植は今度こそ胎動に耳を傾けようと床に膝をつきかけたが、その前に、崔氏の傍らに置かれた簡牘に気がついた。

 先ほどまで、ひとりでこれを読んでいたのだろう。


 目に入った断片的な文言からすれば、書物ではなく書簡であるように思われた。

 妻が実家の人間と、とりわけ育ての親である叔父崔琰と(ふみ)を交わすのは何も珍しくないので、不可解なことではなかった。

 気になったのは、書跡が初めてみるもの―――およそ崔琰が書くとは思われないほどたどたどしい文字であるためだった。

 かといって、婦人らしい柔弱さ、というふうでもなかった。


「季珪どのか、あるいはその奥方からか」


 念のため崔琰の(あざな)を出して尋ねたが、彼女は首を振った。


「いえ、兄からです」


「兄? そなた、兄と呼ぶ者などいたのか」


 いくらか酔いがさめたかのように、曹植は軽い驚きとともに問い返した。

 崔氏は父母の第一子として生まれたというだけでなく、清河崔氏一門の同世代のなかで最年長である。そのことは彼も当初から知っていた。

 同姓の、つまり父方の従兄弟は実の兄弟に準じる存在である以上、もし堂兄(父方の従兄)がいれば兄と呼ぶのは自然だが、妻にそのような者はいないはずである。

 一瞬考えてから曹植は問うた。


「表兄(母方の従兄)のことか。

 そなたの母君は早くに亡くなられたので、その実家とはあまり行き来がないと以前聞いたが」


「はい、わたくしが生まれる前に母の父母や兄弟は既に亡くなっておりましたため、母方の親族とはあまり交流がございません。

 兄というのは、叔父の友人の子でございます」


「友人、―――ああ、そうか、その話は聞いている。

 季珪どのは、鄭康成(鄭玄(じょうげん))門下でともに学んだ親友が早くに亡くなったというので、その遺児を引き取って愛育されたとか」


「そうなのです」


 崔氏の顔がぱっと明るくなった。

 叔父を敬愛してやまない彼女にとっては、その善行が広く知られているという事実がうれしくてたまらないようであった。


「ご友人がたは公孫方さまと宋階さまとおっしゃって、それぞれ男の御子と女の御子がおられたのですが、宋さまのほうのお嬢さまはすでに婚期が近づいておられたので、叔父は我が家に引き取るのではなく、かねてより宋さまが望んでおられた家との婚姻が成立するように手を尽くしたと伺っております。


 公孫さまのご子息は、すでに十代でしたが冠礼には間がありましたので、叔父が実際に引き取って育て、一時期はわたくしや従弟(おとうと)たちと一緒に暮らしました。

 わたくしより五つ年長ですので、兄さまと呼んでいたのです」


「兄さま!?」


 曹植が愕然としたような声を上げた。

 そんな反応が返ってくるとは思っていなかった崔氏のほうが、むしろ驚いた顔になった。


「それほどに、親しかったのか」


「はい、何年も同じ屋根の下で暮らしましたので」


「―――いくつぐらいの頃の話だ」


「兄さまが―――兄が我が家に来たのはわたくしが十一のときで、叔父が手配した婚姻のために兄が家を出て独立したのは、わたくしが十五のときだったかと思います」


「四年間もか! しかも女子の十五といえば成人ではないか!」


「はい、そのこともあって、最後のほうは兄もだいぶ遠慮して、ふたりだけで同室したりするのを避けられたりしましたが―――」


「それはそうだ、当然だろう、血がつながっていないのだぞ」


 彼らしくもなく、曹植は強い口調でたたみかけた。


「というか、そなたのほうは避けなかったのか!?」


「兄さまとは―――兄とは書物を読み合わせたり、何と申しますか、教え合うことが常でしたので」


「教え合う、―――」


 それだけ言って、曹植は絶句したように固まった。


「肉親でもないのにそれほど親しい男がいると、なぜ今まで言わなかったのだ」


「これまでとくに、その機がございませんでした。

 それに、独り立ちしてからの兄は、叔父を訪ねてくることはしばしばございましたが、わたくしとは直接顔を合わせることはありませんでした。

 やり取りをしたのは、主に書簡を介してです」


「それはそうだろう、十五にもなった“妹”が相手ならばな」


 これほど含みのある物言いをするのは、曹植には実に珍しいことであった。

 ここにきて崔氏もさすがに、夫が何やら疑惑をいだいていることに気がついた。


「殊に、わたくしが子建さまに―――丞相家に嫁いでからは、あまりに恐れ多いからという理由で、兄は(ふみ)を交わすのも遠慮していたのです。

 このように書簡を受け取るのは本当に久方ぶりのことで、わたくしもとてもうれしくて―――」


「もうよい。俺に見せられるか」


「どうぞ」


 崔氏は逡巡することもなく、書簡を両手で広げて曹植に渡した。

 何ひとつ後ろ暗いことのない、季節の挨拶と家庭の近況と―――そして、彼女の懐妊を喜ぶ祝いのことばだけが訥々と連ねられた文面であった。

 「兄」がいまこのときに書簡を送ってくれたのは、やはり最後の一事、「妹」の慶事を寿(ことほ)ぐ気持ちばかりは抑えがたかったからであろう。


 一通り目を通した曹植は、どうやらいちばん深刻な疑念は払拭できたものの、なお納得できない思いでいるようであった。


「下手すぎる」


「え?」


「そなたがそれほどに親愛を寄せる相手だというから、どれほどのものかと思えば―――最初、下手なのは書跡だけかと思ったが、文章がひどすぎる。

 こんな稚拙な文を他人に披露して恥じない大人がいるか。

 それとも、身内(・・)が相手だから許されると思っているのか」


「子建さま」


 崔氏の声がにわかに険しくなった。


「兄は無位無官の身ですので、子建さまとは確かに身分の隔たりがございますが、だからといって何を放言なされてもいいということにはなりません」


「俺が直してやる」


 妻のことばが聞こえなかったかのように、曹植は牀から立ち上がって卓のそばまで行き、そこにある筆を無造作に執った。

 そこからの彼は、さして迷うこともなかった。






「どうだ」


 夫からそう言って見せられた書簡は、末尾の常套句「頓首(とんしゅ)頓首」以外の個所はほぼすべて朱入りになっていた。

 崔氏は黙ってそれを見つめ、そして書簡を丁寧に丸めなおした。


 妻であれ父母兄弟であれ誰であれ、自作の文章を見せて何の賞賛も感想も返ってこないなどという反応はかつて見たことがなかったので、曹植はやや気色(けしき)ばんだ。


「短時間だからそれなりの出来栄えではあるが、そう悪いものでもあるまい」


「たいへんご立派です」


 崔氏の声は平坦なものであった。

 そして立ち上がると、今夜は客室で寝ます、と言った。

 婦人の賓客はそうそう頻繁に出入りしないので普段使わない場所ではあるが、休むためのしつらえは常に備わっている。


 曹植は面食らったまま、妻の背中をただ見送らざるを得なかった。

 まだ夜半にも達しないうちに、酒気はいつのまにか抜けつつあった。


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