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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟篇 余話(一)
121/166

毖彼泉水(五)

「子建さまは決して、そんなことはなさいません。

 ―――なさったのは、その」


「何をしでかしたの?」


「その、―――ほんの一瞬、唇に、触れて」


「ああ、接吻だったの」


 なあんだ、と言わんばかりに曹節は拍子抜けをおぼえたが、崔氏のほうはいまやこれ以上赤くはならないであろう顔を両手で覆っている。


「そんなに重大なこと?」


「節さまこそ、なぜそんなに平然と受け止めておられるのですか。

 婚前にそんなことを受け入れただなんて、いま思い出しても、わたくしは」


「そんなに遺憾だったのなら、兄さまをその場で殴り倒せばよかったのではなくて?

 “人にして(しか)も礼無きは(なん)(すみ)やかに死せざる!”とか罵倒して。

 義姉さまは清河のご本家のほうでは農作業に慣れておられたなら、わたしたちみたいな温室育ちより、腕力も十分おありなはず」


「いえ、あの、決して、―――わたくしも、遺憾だったわけではございません」


 崔氏の声はふたたび小さくなり、それと呼応するかのように、壁際の曹植がこちら側へ身を乗り出してきた。


「つまり?」


「つまり、あの、―――うれしかったです」


 うつむいて両手を顔で覆ったまま、崔氏は消え入るような声で答えた。


「うれしくて―――この時間がずっとつづけばと、思いました」


 曹節は何も言わず、義姉の顔を覆う両手の隙間からのぞく、朱い口元を見ていた。

 そしてふと、彼女の肩の向こうに目を向けると、三兄はこちらを―――おそらくは妻の背中を凝視していたが、曹節の視線に気づくと、はっとしたように顔をそむけ、そして衣桁(いこう)の裏側へ完全に身を隠した。






「そんなにまで誰かを好きになることって、あるのね」


 顔の赤みがようやく引いて崔氏が両手を膝に戻したころ、曹節はぽつりと言った。


「わたしにとっては子建兄さまは、天賦の文才という長所を補って余りあるほど、欠点の絶えないひとだけど」


「―――はい。それは、わたくしも否定いたしません」


「それでも、愛しておられるのね」


 崔氏は声に出さずにうなずいた。

 そのようすを見ながら、曹節の胸にふと、胡蝶のようによぎるものがあった。


「わたしも、輿(こし)入れ前に私通(しつう)してみようかな」


 崔氏ががばっと顔を上げるのと、曹植が衣桁の裏から勢いよく上体を出したのはほぼ同時だった。

 どちらも啞然とした顔をして、口をひらきかけたまま硬直している。

 何も気づかぬかのように、曹節は真顔で言った。


「あら、いけない?義姉さまと兄さまはなさったのに。

 ご自分にはお許しになったことを、他者には許さないとおっしゃるの?」


「―――いえ、その、わたくしたちは、私通といえば、たしかに、私通の関係ではあったのですけれど、しかし、ですが、その」


 先ほどにも増して狼狽(ろうばい)し、気の毒なほどしどろもどろになっている義姉のようすを見ながら、曹節はふっと表情を緩めた。


「冗談ですわ。

 少なくとも、義姉さまにはそのとき正式な許嫁(いいなずけ)はおいでにならなかったでしょう。そのことは伺っています。

 だから、私通が成就したとしても、ご家族に迷惑がかかることもなかった」


 曹節のことばは落ち着いていたが、家族という一語だけ、どことなく調子が違うようであった。


「この間も申し上げたように、わたしはわたしの務めを果たすだけです。

 きっと、天子さまを愛するようになるでしょう」


 彼女らしい淡々とした口調で曹節は言い、義姉と目を合わせて微笑んだ。


「―――節さま」


「義姉さまには長らくお引き留めしてしまい、申し訳ありませんでした。

 お疲れになられたのでは」


 別れの頃合いであることを察し、崔氏はためらいながらも立ち上がった。


「節さま、あの」


「どうなさいました」


「すでに天子さまの妃嬪(ひひん)というご身分をお持ちの方にこのようなことを申し上げるのは、非礼かもしれませんが―――抱擁しても、よろしいですか。

 これが、最後になるかもしれないので」


 曹節は少し驚いたような間を置いたが、小さくうなずき、自ら手を広げて長身の義姉の腕の中に入った。

 意外なほどに強い力で、抱きしめられるのを感じた。


「どうか、お身体をお大切に」


「―――義姉さまも」


 身体を離すと、義姉はこの(へや)に来たときと変わらず、穏やかな顔でこちらを見ていた。

 そして改めて礼を交わし、退出していった。






「いいかげん出てきたら、子建兄さま」


 呼びかけに応じる形で、衣桁に掛かる上衣の陰から、曹植がのそりと姿を現した。


「不機嫌そうね」


「機嫌がいいわけがあるか。

 俺がいることを知らせないまま、あれに向かってああも私的なことがらを問いただすとは。

 おまえはあれに―――兄の妻に罪悪感をおぼえないのか」


「あら、そんなに義姉さまのお気持ちが心配なら、兄さまが早々に退室なさればよかったのでなくて?

 ほとんどの間、義姉さまは兄さまのほうに背中を向けていらっしゃったわ」


「そ、それはまあ、そうだが」


「あーあ、義姉さまがおかわいそう。最初から最後まで立ち聞きされただなんて」


「う……」


 正論を突き付けられ、曹植は苦い顔で口ごもった。

 意に介さぬかのように、曹節はつづけた。


「それはそれとして、義姉さまに悪いと思っているかと訊かれたら、もちろん悪いことをいたしました。

 もし義姉さまが後でこのことをお知りになったら、まるでわたしと兄さまが結託して義姉さまを騙したかのようにお思いになられて、きっと傷ついてしまわれるもの。

 単なる好奇心からとはいえ、義姉さまには申し訳ないことをしました」


「そうだろう。だったら―――」


「だから、罪滅ぼしということで、わたしから兄さまにお願いするわ。

 義姉さまのことを、これまで以上に大事になさってね」


「もちろんだ」


「ならいいけれど。

 あんなにも兄さまを想っていらっしゃる義姉さまを傷つけないためには、第一に、他の婦人を近づけないようにね」


「―――そのつもりでいる」


「それと、くれぐれも飲みすぎないように。

 お酒の勢いでうっかり家妓とよろしくやってしまう、ということもありそうだから。兄さまの場合」


「おまえというやつは、嫁入り前のくせに、そんなことを平然と口にするな」


 憤慨と呆れがないまぜになったような声で曹植は語調を荒げ、心なしか目元まで赤くなっていたが、曹節の顔は涼しいままだった。


「ご自宅では義姉さまがお待ちだわ。早く帰ってさしあげたら」


「言われずともそうする」


 ことば通り、曹植はこの房に未練もなさそうに戸口へ向かった。

 が、扉の手前あたりで一瞬立ち止まり、顔だけ曹節へ向けて言った。


「先ほど言いそびれたが、わざわざここへ来てやったのはな」


「え」


「おまえの憎まれ口を(じか)に聞くのも、これが最後になるかもしれないと思ったからだ」


 ふうん、と曹節は軽くうなずいた。


「兄さま、わたしのこと、抱擁してもいいわよ」


「誰がするか」


「じゃあわたしがしようっと」


 そう言うと、曹節は兄の応答も待たず駆け足になったかと思うと、驚いてこちらに向かい合う形になった彼の胴に飛びつくようにして、自ら抱きついた。


 曹節はてっきり、「危ないだろう」のような叱咤が飛んでくるかと思っていたが、曹植は何も言わなかった。代わりに、彼の(てのひら)が後頭部に置かれるのを感じた。

 しばらくそうやって兄の肩越しに扉のほうをみていると、ぽつりと声が落ちてきた。


「つらくなったら、戻ってこいよ」


 いちど後宮入りしてしまったら、どうやって好き勝手に戻るっていうの、と曹節は思わず笑い出しそうになったが、その拍子になぜか、視界が淡く滲みだした。


「―――女子 (ここ)(とつ)ぎ 父母兄弟より遠ざかる」


 ようやく小さな声で(くちずさ)んだのは、『詩経』邶風(はいふう)の「泉水(せんすい)」の一節であった。

 女子が長じれば必ず生家を出ることは、古今くつがえせない定めである。

 曹節は首を少し仰向け、天井を眺めるようにしながら、ゆっくりと目を瞬いた。


「わたしももう、受け入れたから」


 そう言うと、抱擁を解いて兄から一歩の距離を置いた。

 それを見届けたように、曹植もうなずき、扉から出て行った。






 ひとり残された房のなかで、曹節は宜男と芙蓉文様の(くつ)と、三兄から贈られた二篇の作品をひらき、ぼんやりと眺めた。

 彼らしく伸びやかに闊達(かったつ)で、よく目に馴染んだ墨跡だった。


(もうすぐ、侍女たちが来てしまう)


 そう思い出すと、曹節は二篇とも筒状に丸め、丁寧に包み直した。

 そして窓際に行き、早春の淡い日差しに包まれながら、ひとときのあいだ目を閉じた。






毖彼泉水・了











ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

このあと、次の「伉儷(こうれい)」篇までしばらくお休みいたします。

夏頃までには再開できればと思いますが、よろしければ気長にお付き合いいただけましたら幸いです。


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