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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟篇 余話(一)
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毖彼泉水(四)

「前に、義姉さまはどうして、子建兄さまと結婚されたのかとお尋ねしたけれど」


「はい」


「好きになられた理由はひとことで説明できないとしても、そもそもどうして、兄さまと結婚してもいいとお思いになったの」


 崔氏の背後の壁際で、衣桁に掛かる衣の輪郭が、それと分かるほどはっきり動いた。

 曹節としては、三兄に義姉の答えを聞かせたら後々の反応がおもしろかろう、という悪戯心がなくはなかったが、しかし、義姉の答えを知りたいと思う気持ちも本当であった。


 なおかつ、いまここでこのような問いを発したのは、この義姉が三兄を傷つけるようなことを言うはずはない、と確信があるからでもあった。


「してもいいだなんて、そんな」


「でも、いちどは求婚をお断りになったと側聞しました」


「どなたからでしょう」


「子建兄さまから」


「まあ」


「いちど求婚した翌日、義姉さまのご実家を出発するその日にふたたび求婚して、ようやく受け入れられたのだとか。

 その一日の間に、子建兄さまへのお考えを改めるような、何か劇的な事件でもあったのですか」


「いいえ、劇的な事件というほどは……ただ」


「ただ?」


「夜中に一緒に散歩をしたりは、いたしましたが」


「夜中に!?」


 曹節が急に身を乗り出してきたので、崔氏はびくっと首をすくめた。


「どういうこと!?兄さまが誘い出したの?」


「え、ええ……」


「だめよ、そんな誘いに乗ったら!

 家を出たことがないわたしでも、夜中に男に会ったりしてはいけないことぐらい知っているのに。

 義姉さまの貞操は無事だったの?けだものみたいなことされなかった?」


 そのとき曹節の視界で動くものがあった。

 義姉の肩越しにそちらを見れば、曹植が衣の陰から上体だけのぞかせ、

(黙れ)

と険しい表情と手振りで伝えてこようとしているのであった。


「そんな、滅相もございません。

 月が綺麗な夜で、ふたりで歩きながらお話をして、―――道中でちょっとしたこともありましたが、それはそれとして、子建さまは終始礼節を保ってくださいました」


「そうなの。でも、それは単に運が良かっただけではなくて?

 男の人が女の人を夜中に連れ出すのに、下心が少しもないなんて信じられない」


 いいからおまえは黙れ、と言うように三兄の眉間がますます険しくなるのを無視して、曹節はつづけた。

 しかし崔氏はこうべを振った。


「それは、本当になかったと思います。

 話すと長くなるのですが、子建さまは、わたくしには思慕する相手がいると誤解なさっていて、その相手と結ばれるように仲立ちをしようと申し出るために、わざわざお誘いくださったのです」


「兄さまが、本当にそんな殊勝なことを?」


 一瞬、曹節は義姉の肩越しに三兄のほうへ目をやりかけたが、義姉の関心をそちらに引きかねないことを危ぶみ、すぐに視線を戻した。


 ふたたび見つめられた側の崔氏は、少し思いつめた表情で口をつぐんでいたが、やがて決心がついたように口をひらいた。


「それに、何と申しますか、子建さまはその日の昼間、最初の求婚をなさったとき、―――その、わたくしの貞操を、奪おうと思えば奪える状況でした」


「そうなの!?

 既成事実を作って結婚に持ち込もうと思えばできたということ?」


 ふたたび前のめりになった義妹の勢いにやや引き気味になりながら、崔氏は補足した。


「ですが、実際にはなさいませんでしたので、わたくしも夜中についてゆくほど信じることができたのです」


「なるほど。でもそれだと、翌日に求婚をお受けになった理由が分からないわ。

 夜中に決定的なことがあったわけではないのですね」


「はい。何かあったわけではないのです。

 ただ、その―――」


 崔氏は顔をうつむけ、声がひときわ細くなった。


「このかたのことがとても好きだと、その気持ちがいよいよ募ったことを除いては」


 かなり小さな声だったので、壁際にいる曹植のところまで届いたかどうかは分からない。

 だが、彼の表情も少しだけ変じたように曹節の目には見えた。

 三兄らしくもなく、こちらから不自然に目をそらしている。


「いよいよ分からないわ。もともと子建兄さまのことを好いていらしたなら、最初の求婚のときにお受けになればよかったのではなくて?


 もちろん、正式に求婚を承諾されるのはご家長かと思うけれど、最初の求婚のときと翌日の求婚のときとで、ご家長の同意がなかったりあったりと変化したわけではないでしょう。

 そのころ季珪どのは、ずっと許都の丞相府にいらしたということだし」


「はい。叔父のもとに曹家から正式な求婚の使者が達したのは、それよりずいぶん後になります。

 二回目の求婚のときにお受けしたのは、―――これも話すと長いのですが、偶然の事故が重なって、わたくしの気持ちが子建さまに伝わってしまって」


「そうなの!?」


 曹節はいまや目を輝かせて聞き入っている。


「つまり、もう後に引けなくなったから求婚を受けたということ?」


「というのとは、少し違っていて……」


「違うのですか?」


「わたくしの気持ちが露見してしまったから、ではなくて、あのとき、わたくしは―――子建さまに必要とされていると思えたので、お受けしようと心を決めました。

 たとえ、あのかたの一番になれなくても」


 崔氏は目を伏せて言った。

 あまりに深く伏せているので、黒目がちな双眸がほとんど漆黒のように見える。


 曹節は、そうなの、と小さくうなずいた。

 そして、不自然にならないように壁際に目を泳がせ、三兄の表情を探ろうとした。

 彼もまた伏し目になっていたが、こちら側に聞き耳を立てているのは明らかであった。


「つまり、最初の求婚を断ったのは、子建兄さまにはほかに……その、比類なく心に慕う相手がいると、義姉さまはお思いになったから?」


「―――はい」


「それでも、受け入れることになさったのね」


「はい。自分で決めました」


 そう、と曹節はつぶやいた。

 そして少し考える顔になったが、それは話題を転じるためであった。

 「一番になれなくても」が意味するところを問いたい気持ちはあったが、この点に関しては、いまはこれ以上触れまいと思った。


「―――それで、求婚を承知したその場で、押し倒されたりはしなかったの?

 俺たちはいまや夫婦になったも同然だ、とか言って」


「節さま!」


 真っ赤になった義姉の耳の輪郭の向こうで、三兄がふたたびこちらに顔を向けた。

(ひとを野獣のように言うな)

と苦々しさを極めたようなその口元が語っている。


「もちろん、そのようなことはなさいませんでした。

 わたくしが最終的に求婚をお受けしたのは、わたくしの実家のことも大事にしてくださると、子建さまがはっきりおっしゃってくださったからでもあるのです。

 姻族となる我が家への礼節をおろそかにして野合(やごう)に及ぶなどということは、夢にもお考えではなかったと思います。―――ただ」


「ただ?」


「一度だけ、その」


「一線を越えたの!?」


 崔氏はいまや完全にうつむき、首まで真っ赤に染めたまま、小さくうなずいた。

 義姉の肩越しに、三兄が愕然(がくぜん)とした面持ちで首をぶんぶん振って否定するのが見えた。

 しかし先が気になる曹節にはそれどころではない。


「まあ、子建兄さまがねえ。

 でも不思議はないわね。あのお父さまの子だもの」


 視界の端に映る三兄は首を振るのを中断して、

(おまえもだろうが)

と手振りで伝えようとしてきたが、曹節は無視してつづけた。


「でも義姉さまは、子どものことはご心配ではなかったの?」


「子ども?」


「だって義姉さまは、ご自分の家を尊重してもらうことを条件として求婚を受け入れなさったわけでしょう。

 つまり、両家の間で六礼(りくれい)を経て正式な婚姻を完成させるのだったら、どう簡略化したって数か月を要することはお分かりだったはず。

 万が一その求婚の時点で子どもができたら、色々困ったことになるのではなくて?

 まさか義姉さま、好いた気持ちが昂じるあまりご自分から身を委ねて―――」


「節さま、誤解なさっておいでですわ!

 一線を越えたというのは、まさかそんな、そういう意味ではございません」


 真っ赤な顔を勢いよく上げ、崔氏も必死に否定を始めた。


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