(三)玉環
「―――はい。屈子の足跡をなぞろうとされているのかと、思い込んでしまいました。
あなたさまはなぜ、こんな川の半ばまで歩んでこられたのですか」
「これを投じようかと思ったのだ。岸から投げてもよかったのだが、できるだけ確実に深いところに達するようにしたかった」
そう言って青年は左手に握るものを崔氏に見せた。それは白地に青緑色を帯びた直径四寸ほどの玉環で、両面に精緻な魚紋が彫りこまれ、中央に一寸ほどの穴が空いている。本来は綬で腰に佩びるべきものであろうが、いまは何も結わえつけられていない。
「まあ……かように美しいものを」
「だがこの渓流も美しい。これほど水がよく澄んで、底近くまで見通せる河川はめったにない。かくも清らかな流れの底で磨耗してゆくことができれば、この玉も幸せだろう」
「何か、大切な思い出のあるお品なのでは」
青年は崔氏を見返した。ふたりの間にはなお三、四歩ほどの隔たりはあるが、これほどの至近距離で見知らぬ男から直視されることに慣れていない彼女は、ほとんど本能的にまなざしを伏せた。
「僭越なことを申し上げました」
「いや、そんなことはない。
―――この玉はだいぶ前、さる婦人からもらいうけたのだが、やはりそろそろ、手放すべきときだと思ってな」
「そのご婦人をお忘れになるために、でございますか」
「まあな。俺もこの正月で成年に達した。割り切るべき時機というものがある」
「お悔やみに、なられるのでは」
「なぜそう思う」
崔氏は黙った。やはり出すぎたことを口にしてしまったように思ったのだ。
けれどなぜか、たとえ僭越だと思われても、この青年に自分の感じたことを伝えたい気がした。
「あなたさまはその玉環を取り出されるまで、この数歩前の地点で、水の冷たさもお忘れになったかのように長い間逡巡しておられました」
「そう、だったろうか」
「それに先ほどお転びになられたとき、左手ならわたくしにつかまることがおできになったはずです。
けれど握り締められた玉環を手放そうとなさいませんでした。
それほどに大切な、二度と失いがたいものではないのですか」
「よく見ていたな。―――たしかに、そのとおりだ。
だが正直、これを手元に置いておくのがそろそろ苦しいと、そう思うようになってきた。
その婦人を想うことも、これを形代として懐に抱くことも、いわば礼教に背きつづけるようなものだからな」
崔氏はふたたび目を上げて青年の顔を見た。苦しいという割にはその微笑はどこまでも開け放たれて陰影らしきものはなかったが、瞳の奥にどこか寂しげな色があった。彼女は何か、胸苦しくなるものを感じた。この青年に、少しでも心安らかであってほしいと思った。
「礼教に背くとはむろん、あってはならぬことですが、―――決してあってはならぬことですが、道ならぬ狂熱に御身を駆られぬためにこそ、偲ぶよすがが必要なのではないでしょうか。
たとえ今ここでそれを擲たれても、あなたさまはきっと、そのおかたをあきらめることはできますまい」
青年は一瞬目を見開き、少し笑った。優しい笑いだったが、やはり瞳の奥に翳りがあった。
「そなたは巫祝か何かのようだな。俺に宣託を授けようとする」
「ご容赦を」
「かまわぬ。―――たしかにそうだ。これをいずこに投じようと誰かに譲ろうと、きっと同じことだ。あのかたを忘れることの助けにはならぬ。ならばやはり手元に留めておくか。
水辺の窈窕たる淑女に勧められたことでもある」
崔氏は目元を赤らめ、反射的に顔をうつむけた。
物慣れた都会の貴公子ならではの、単なる戯れの口上にちがいないとは思うが、受け流し方が分からない。
鄴や許都に住んだことがあろうと、やはり自分は鄙の人間なのだと思った。そして、とにかく話題を変えようと試みた。
「あの、どうかよろしければ、お召し物を乾かしに我が家にお寄りください」
「そうか、すまんな」
「水をおかぶりになったのはわたくしのせいですから……まことに申し訳ないことをいたしました」
「いや、少し早い禊だと思うことにする」
青年はそう言って笑った。その笑いには彼本来の伸びやかさが戻ってきたようであった。彼の言う禊とは三月上巳に水辺で身を清める行事のことである。
そういえばもうすぐ三月なのだ、と崔氏は思った。