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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟篇 余話(一)
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毖彼泉水(三)

「崔の義姉さま、今日はどうなさいました」


 互いに礼を交わした後、入室した義姉に筵席(えんせき)を勧めながら、曹節は尋ねた。


「お忙しいところ、申し訳ございません。

 今朝がた義母上さまから、この時間には節さまの琴のお稽古が終わっていると伺いましたの。

 もしご在室ならば、こちらをお手渡しできればと思って。

 すぐにお(いとま)いたします」


「―――まあ、素敵」


 渡されたものを目にして、曹節がそう呟いたのは世辞ではなかった。

 暗赤色の生地に薄紅の糸が織り込まれた(かとりぎぬ)反物(たんもの)であった。

 義姉の故郷たる清河(せいが)の特産として著名な織物である。

 配色と文様は控えめだが、緻密な織目と丈夫さが際立ち、長年の使用に耐えるであろうと思われた。


「義姉さまがご自分で織り上げてくださったのですね。

 うれしい。大切にします」


 ことばどおり、曹節は贈り物を大切に胸にかかえた。

 崔氏もうれしそうな顔になり、色白の目元を淡く染めた。

 そして、義妹の(へや)は以前よりものが少なくなったことに―――宮中に持参すべきものは、すでに梱包され始めたことに気づいたようであった。


「節さまは近日はさぞ、お忙しいことと存じます」


「そうでもありません。

 数か月かかったけれど、礼儀作法の教習はひととおり終わりました」


「まあ、数か月も」


「いまは琴と書の復習と、宮中に持参する衣類の最後の点検などをしています。

 少し前にいい絹が手に入ったので、新しく仕立てたものもいくつか」


「後宮入りの後もしばらくはお忙しいでしょうから、仕立てられるときに仕立てておくのがよろしいですね」


 義姉と平和な会話を交わすうちに、曹節はつい、遊び心のようなものが湧いた。


「あそこにあるあれなどは、これから丈を詰める予定だけれど」


 と、壁際の衣桁(いこう)に掛けられた上衣を指さし、わざわざ義姉の視線をそちらにいざなった。

 当然ながら衣は静止しており何の変哲もないが、その布の裏側で「あの野郎!」とこぶしを固める三兄の顔が目に浮かぶようであった。


「そうですのね。採寸のたびに姿勢を保つのも、大変お疲れになることでしょう。

 この後も諸々のご予定がおありでしょうから、わたくしはこれで」


 そう言って腰を浮かしかけた義姉を、曹節は手でとどめた。


「いえ、そこまで時間がないわけではありません。

 せっかくいらしてくださったのだから、義姉さまともう少しお話したいです」


「まあ、ありがとうございます」


 義妹が自分のために時間を割いてくれることに、崔氏は感激したようであった。


「義姉さまこそどうか、お楽になさって。身重でいらっしゃるのですから」


 そう労わりつつ、まだあまり目立たない腹部に目をやった。


「義姉さまもきっと、御子を迎える準備で日々お忙しいのでしょうね」


「まだ、それほどでもないですけれど、お産は暑い時期になりそうなので、薄手のくるみ布をたくさん織っております」


「生まれたら―――」


 父母どちらに似るだろうか、どんな小字(おさなな)を付けるのか、といったことを訊かれるのを予想してか、義姉の表情はいっそう明るくなった。

 まだ見ぬ我が子に思いをめぐらすことは、いまの彼女にとってこのうえなく幸福な営みなのであろう。


 だが、曹節の関心はそこにはなかった。


「不自由になると、お思いにならない?」


「不自由?」


 虚を突かれたような義姉の顔を見つめながら、曹節はつづけた。


「乳児のうちは乳母をお雇いになるでしょうけれど、子どもが物心ついた後の訓育は、母親がすべて責を負うことになるでしょう。

 つまり、生まれてしまったら、もう後に引けないということ。

 ご自分のために生きる余地がなくなるのではない?」


「それは、―――人の妻になり母になった女はみな、通る道ですから」


「それよ」


 曹節はとうとう疑問があふれたかのように、義姉に向かって指をさした。


「義姉さまは叔父ぎみ(崔琰)に倣って、かの鄭康成(鄭玄(じょうげん))どのの学問を幼いころから熱心に学ばれてきたと、子建兄さまから伺いました。

 わたしは経学(けいがく)には興味はないけれど、誰かの妻や母になったがために、自分が没頭した大切なものを諦めないといけないのって、無念ではないの?」


「諦めたわけでは……いまも、子建さまから禁じられているわけではございません」


「でも、我が曹家に―――よその家に嫁いだことで、夫と義父母への奉仕を何よりも優先しなければならなくなったでしょう。

 ご実家にいらっしゃるときよりも、自由の度合いは減ったはず」


「―――はい」


「まして、子どもが生まれたらもっとずっと、不自由になってしまう。

 そういうのって、怖くなったりなさらないの?」


「怖い、とは」


「自分以外の誰かが、自分のすべてになってしまうということ」


「それは―――」


「というか、義姉さまのように学ぶことがお好きな方ならなおさら、自分が男だったらって思ったりなさらない?

 いろんなところへ足を運んで、もっと多くを学んで、もっと広い世界を見られたかもしれないのにって」


「そうですね、―――それは、そう思うときも、たしかにあります」


 ふと、義姉の肩の向こう側、衣桁に掛けられた丈長の衣がわずかに動いたようであった。


「ご存じかもしれませんが、叔父はかつて鄭師父のもとを辞去した後、黄巾の乱の余波を受けて交通が途絶していたために、さまざまな土地を迂回することを余儀なくされて、四年の歳月をかけて清河に戻ってきたのです。

 そのころわたくしはほとんど赤子だったので、叔父の帰郷直後のようすなどはほとんどおぼえていないのですが。


 困難ななかにも得るものは多くあったようで、ときどき旅の思い出を語ってくれました。

 そのなかで何度も回想に出てきたのは、(せい)の地(山東半島)を巡ったときのこと―――海を見たのだそうです」


「まあ、海」


 曹節は丸い双眸(そうぼう)を大きく瞬いた。

 父曹操の遠征に随従するために家族全体で移動するのを除けば、彼女はかつて曹家の本拠地を離れたことがなく、むろん、海をじかに見たこともない。


 曹操自身は、はるか東のかた碣石(けっせき)という山の一帯を経たときに海を見る機会があり、四章から成る楽府(がふ)「碣石篇」の第一章においてそのときの感興を詠っている。

 汲んでも尽きぬ大海が波立つさまを「水の何ぞ澹澹(たんたん)たる」とわざわざ歌辞に残すほどに、中原の内陸に生まれた者には海を見る機会が少ないのだと言える。


「叔父もよほど感銘を受けたのか、そなたが男児ならば遊学を許し、海も見せてやりたかった、と言われたことがあります。

 そのこともあって、いつからか、天下の周遊とともに、海を見ることに憧れるようになりました。

 斉の地は我々崔姓の者にとって、父祖の故地でもありますので」


「そう。でもそれなら、子建兄さまが斉の地に、臨菑(りんし)に転封されたのはよかったこと。

 兄さまがご自分で治めるわけではなくとも、封邑だからいつかは義姉さまを連れて訪れ、沿岸部にも行く機会があるかもしれない」


「そうですね、―――でも、本当に望んでいるのは、少し違うのです」


「違うのですか」


「誰かに連れられて海を見られたらいいというのではなくて、―――もし男に生まれていたら、海が始まるところ、東の地の果てまで、自分の力で踏破してみたいと、そのように思い描いていたのです。


 荒涼とした平野や山地を越え、ときに舟で河川を下り、最後は黄河に沿って歩き通せば、必ずいつか辿り着けるのではないかと」


 曹節は黙って聞きながら、最後に、「少し意外」とつぶやいた。


「意外でしたか」


「義姉さまはいつでも、子建兄さまと一緒なのがいちばんなのかと思っていたから」


 崔氏の目元がはっきりと赤くなった。


「それは、まちがいではないのですけれど、―――でももし、困難な道行きを自分ひとりで乗り越えて、その先に海原(うなばら)を見はるかすことができたなら、きっと生涯忘れられない光景になると、そう思ったのです。


 子建さまにお会いする前も、お会いした後も、その思いは変わっておりません。

 夢想ですけれど」


 そう言って崔氏は腹部に目を落とし、両手でそっと覆った。


「心残り?」


「―――はい。

 でもいまは、この子に会うことが、何よりも大切なので。

 心残りではありますが、もし男に生まれていたら、と思うことはもう、ありません。―――ほとんど」


「そう」


 曹節は静かにうなずいた。

 そのまましばらく義姉の腹部を眺めてから、ふと、何でもないことのように言った。


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