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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟篇 余話(一)
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毖彼泉水(二)

 我知らず、曹節は三兄の袖を引いて押しとどめた。


「列侯ってそんなに忙しい身分なの?

 自分で封邑を治めるわけでもないのに」


「うるさい」


 そう言いつつも、曹植はまた腰を下ろした。


「おまえこそ暇なのか」


「忙しいのは、わたしより侍女たちだから」


 (くつ)に縫いこまれた芙蓉(ふよう)の文様を指先で撫でながら、曹節は言った。

 さすが臨菑(りんし)の産と言おうか、驚くほど緻密な刺繍の技巧もさることながら、糸の彩りも光沢も申し分ない。


「芙蓉は文様としてはよくあるから、宜男(ぎだん)でもよかったが」


「ううん、―――芙蓉がいい」


 あの夏の日を思い出せるから、と曹節は思った。

 けれど口には出さなかった。


「そういえば、宜男の花は」


「もちろん、宮中に持っていくために、ちゃんとしまってあるわ」


「いや、別に取り出さなくてもいい」


 そう念を押されたにも構わず、曹節は自ら立ち上がって小卓のほうへ行き、小さな絹の袋を携えて戻ってきた。

 彼女のその反応には、先日あった崔氏との、つまり三兄の妻との一件のことで、後ろめたさが働いていたことは否めない。


 そして席に就くと、ずっと気になっていたことを、ふと思い出したかのように言った。


「ねえ、お父さまは」


「ああ」


「本当にわたしが、―――わたしたち姉妹の誰かが、天子さまの男児を、皇子を生むことを願っていらっしゃるかしら。

 もちろん、天子さまの―――今上陛下の跡を継がれるのは、(ふく)皇后との間にお生まれになった御子だけれど」


「問うまでもない。

 漢祚が永代つづくためには、天子を盛り立てて藩屛(はんぺい)となられる皇子は多ければ多いほどよいと、父上はお考えのはずだ」


「本当に?」


「おまえは何を疑って―――」


(とう)貴人のことを、お忘れになったの?」


 曹植は妹を見返し、口をつぐんだ。

 董貴人は今上帝の妾妃のひとりであり、漢朝で車騎(しゃき)将軍という重職にあった董承(とうしょう)のむすめである。


 いまより十四年前―――曹節自身はほんの幼な子で、曹植もまだ子どもだった建安五年、董承は曹操暗殺を企図したという嫌疑により曹操に殺され、連座する形で董貴人も殺された。

 暗殺計画は今上帝の密詔を承けて立てられたともいわれるが、詳細は明らかでない。


 董貴人はそのとき、懐妊していた。

 今上帝はそれを理由にして何度も助命を嘆願したという。

 しかし曹操は容れることなく、処刑を断行した。


「漢室の繁栄を祈念するなら、天子さまの御子ごとその母君を殺すなんてことが、どうしてできるの」


「それは、―――父上も決して、本意ではなかったはずだ。

 董承の暗殺計画は未然だったとはいえ、手ぬるい対応をすれば、同様の例が後を絶たなくなるだろう。

 父上が世に比類なき大功を次々挙げられているばかりに、あえて父上の悪評を陛下に吹き込み、まるで陛下のご意向であるかのように父上を葬ろうとする連中が。

 ―――父上は、陛下のご身辺を平安にするためには、ほかに方法がないとお考えになられたのだ」


「子建兄さまは、お父さまのことになると、現実を見ないようにするわよね」


「何を言う」


「もしそのときの御子が男児で、出産後の董貴人が処刑された後もそのまま生い育ったなら―――我が曹家を外祖父と生母の仇と見なして、いつか報復を考えるかもしれないから、未然に手を打ったということでしょう。

 すべて、我が一族の保全のためではないの?」


 曹植は唇を結んだまま、目を落としていた。

 曹節もそれ以上、問わなかった。

 絹の袋から宜男の花弁をつまんで取り出し、見るともなく眺めていた。


 子建兄さまは本当に、愛に包まれて生きてきたひとだ、と思う。


 むろん曹節自身も、生母を早くに失ったとはいえ、育ての母である卞氏からは実子同然に愛情と保護を与えられてきたという実感はあるが、さしもの聡明な卞氏も、曹植に対しては公平さを維持できているとはいいがたい。

 つまり、曹丕はじめ他の実子たちに比べても別格の恩愛を、曹植ひとりに注いでいる。

 曹家の公子公女たちの目にはそう見える。


 それに加え、父曹操からの寵愛である。

 そもそも子女の数が多すぎるので、男児より重要性の劣る女児に対し父がほとんど関心を払わないことは曹節にとって日常であり、いまや不満を持つ気にもならないが、父は男児に対してすら、多くの場合はひとえに能力本位で評価し、与える愛情の濃淡を決めている。


 ゆえに、十代以降みるみる花開いた曹植のたぐいまれな文才と、打てば響くような聡明さを、曹操が手放しで喜んでいることは誰の目から見ても明らかである。

 だが、それを差し引いても、この息子のどこまでも虚飾なく屈託ない人柄を、一人の親として曹操はごく自然に愛しているようにみえる。


 だから三兄は、自分が心から愛し、自分を心から愛してくれる人々の善性を疑いたくないのだろうと、曹節はそう考えざるを得ない。

 (へや)の隅で焼かれる炭がときおり乾いた音を立て、兄妹ふたりの耳に届いた。






 沈黙が重苦しさを帯びてきたころ、扉の外から侍女の声が届いた。


「失礼いたします。臨菑侯夫人がおいでになりました」


「何だって?」


と曹植は慌てて問い返したものの、その声はすぐに潜められた。

 いままさに扉の外にいるであろう客人、つまり崔氏に聞かれたくなかったのだろう。


「兄さま、ちょうどよかったわね。義姉さまと帰路をご一緒できるじゃない」


「そんなわけがあるか。俺がここにいることをあれに知られては困る。

 隠れさせてもらうぞ」


「どうして」


「俺はおまえに腹を立てていることになっている(・・・・・)

 いや、まだ腹を立てている。くれぐれも忘れるなよ」


 おやまあ、と曹節は思った。

 三兄と自分が一応関係を修復したことを義姉が既に知っている(・・・・・・・・・・)ということを、三兄はまだ知らないわけであるまいに、義姉の前ではなお、実妹が彼女に対して犯した非礼に怒っているという態度を保つことが必要だと考えているらしかった。

 つまりそれだけ、彼女の心情に配慮しているということだろう。


「忘れはしないけれど。わたしに腹を立ててらっしゃるなら、他の者を使いによこせばいいのではなくて。

 ご自分でここにいらしたりするから、義姉さまと鉢合わせするのよ」


「う……」


 曹植は珍しくことばに詰まったが、曹節は意に介することなくつづけた。


「どうしても身を隠したいなら、あのあたりがいいのではなくて?

 わたしがここに座って客席がこの向きだったら、入室後の義姉さまはあの方角に背中を向けられるわけだし、兄さまもこっそり出てゆけるじゃないの」


 曹節はそう言って房の一か所を指さした。

 扉の左脇には衣桁(いこう)と衣裳棚が並んでおり、その中間は暗がりになっている。


 さらに衣桁には、まだ裾を詰めていない、かなり丈長の上衣が架けられているため、その後方に潜めば、崔氏が入室するとき仮にそちらに目をやったとしても、凝視しない限りはおそらく何も気づくまい。

 何より扉のすぐ脇なので、隙を見てそっと退室することも可能な位置関係であった。


「そうだな、そうする」


 曹植は安堵したようにうなずき、急いでそちらへ向かいかけたが、ふと振り返って言った。


「その(くつ)と詩と花と、―――とにかく、俺が渡したものはしまっておけよ」


 やれやれ、と思いながら、曹節は言われたとおりに片づけ、義姉を迎えるべく立ち上がった。


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