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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟篇 余話(一)
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毖彼泉水(一)

予定より投稿が遅くなり、申し訳ありませんでした。


「兄弟」篇本編の少し後、曹節が後宮に入る前の話です。











「子建兄さま、またいらしてたの」


 姉妹たちとともに受ける琴の稽古の場から自分の(へや)に戻ってきた曹節を出迎えたのは、三兄の曹植であった。

 出迎えたと言っても、筵席(えんせき)に座ったままこちらを一瞥したのみである。

 公子の来訪とあっては、この房の番をしている侍女も追い返すわけにはいかず、そのまま通し、賓客用に場をしつらえたのであろう。


 侍女を退室させると、曹節は兄に礼を向け、その対面に坐した。


「どうなさったの?

 やっぱり、この間くださった宜男(ぎだん)の花が惜しくなられたのかしら」


「そんなことではない」


 妹の()(ごと)に腹を立てるでもなく、曹植は短くあしらった。

 そしてしばらく黙っていたかと思うと、袖のなかから筒状のものを取り出した。

 どうやら、内側に文字が書かれた絹である。何かを清書した文書なのだろう。


「おまえにやる」


「あら、ありがとう」


 受け取った絹を広げてみると、結婚を控えた妹にいかにもふさわしいもの―――婦女子にしかるべき作法を教える女訓書(じょくんしょ)の類ではなく、詩であった。

 それほど長いものではないが、三兄の作品としてはこれまで目にしたことがない。

 おそらく今回初めて書き下ろしたものなのだろう。


「もっと喜べ。(ぎょう)城下ならどれほどの値がつくことか」


「わー、うれしいー」


 ほぼ棒読みで応じながら、曹節は詩の本文に改めて目を通していた。

 「逍遙たる芙蓉(ふよう)池、翩翩(へんぺん)として軽舟に(たわむ)る」という句で始まるそれは、文字としては見慣れないものではあったが、どことなく懐かしさを誘った。


(―――ああ、そうか)


 曹節は腑に落ちた気がした。

 おそらくは、自分たち兄妹がともに過ごした、ある日の情景を描こうとするものであった。






 銅雀(どうじゃく)台が落成した建安十七年(二一二)―――曹植が結婚したのと同じその年の仲夏のころに、曹操の子どもたちのうち珍しく女児たちも、銅雀園内で自由に散策するのを許されたことがあった。

 日差しはさほど強くなく行楽日和(びより)だったその日の夕暮れ、上の兄たちはたまたま芙蓉池に舟を浮かべようとしていた。

 曹節と何人かの姉妹は、頼み込んでその舟に乗せてもらったのだ。


 広壮な銅雀園には大小いくつもの池が穿たれているが、そのなかでも芙蓉池はひときわ大きく眺めも秀麗で、舟遊びに適した場所である。

 長兄の曹丕や三兄の曹植は、しばしば文人仲間を招待して園内に宴を張り、熱心に詩文を交わしては友誼を深めていることは曹節も知っていた。

 ときにはともに舟に乗り、詩興をいっそう盛り上げることもあるのだろう。


 しかしその日は曹家以外の人間は園内に出入りできないことになっていたので、兄弟たちと水夫(かこ)たち以外、そのあたりには誰もいなかった。

 だから、曹節たち姉妹も人目を避けて姿を隠すことなく、のびのびとふるまうことができたのだ。


 芙蓉池の芙蓉は(ハス)のことである。

 夏の盛りだけあって、水面(みなも)のそこかしこには緑の大きな葉が広がり、朝方に咲いてから閉じたとおぼしき桃色の芙蓉のつぼみも点々と顔を出していた。


 曹節はふと目を閉じ、舟が大きく揺れるたびに生じた水しぶき、姉妹たちが上げた悲鳴のような歓声を思い出した。

 あまりの(かまびす)しさに曹丕は眉をしかめ、力自慢の次兄曹彰は水夫たちに混ざって悠々と舟を漕ぎ、曹植は姉妹の楽しげなようすを見ながら笑っていた。


 その場でいちばん年下の妹が「芙蓉の花が欲しい」と言い出したので、曹植が船縁(ふなべり)から身を乗り出し採ってやろうとして、危うく彼自身が池に落ちそうになったことも、曹節は思い出した。

 「いい歳して何やってるの」と呆れながらそれを脇から支えて助けてやったのが、他ならぬ彼女であった。

 

 三兄の袖を一緒に絞ってやっていると、銅雀園の別の場所、どこかの(あずまや)では父曹操が族人を招いて宴席を設けているのか、澄んだ管弦の音が聞こえてきた。

 その旋律に乗せるかのように、曹植は即興で詩を口ずさみ始めた。

 気づいた曹丕は弟妹たちを静かにさせ、舟を漕ぐのも停止させて、自ら耳を傾けた。

 西の空に瞬き始めた星明かりのもとで、管弦と朗詠だけが響いていた。






「あと、これだ」


 追憶から目覚めさせるように三兄が差し出してきたのは、女物の絹履(きぬぐつ)であった。

 淡い緑色の生地に、紅白とりどりの芙蓉の花が刺繍されている。


「ひょっとして、臨菑(りんし)の職人の刺繍なの?」


 曹節の声が少しだけ高くなった。

 曹植の封邑たる(せい)国臨菑県は古くから刺繍の技術で名高い都会だが、現在は、倹約を重んじる曹操が発した全国的な禁令のもとで、生産体制は縮小しているはずである。


 だが、禁じられているのは魏公の親族や官僚たちが刺繍入りの衣服を日常的に着まわすことであって、特別な儀式のための礼服や、履や手巾のような小物のために刺繍することは許容されている。

 そうでなければ、官の工房や民間の家庭において技術を継承することすら難しくなってしまう。


 受け取ったものを掌に載せてよく見てみれば、大きさや重量は、曹節がふだん履きなれている履とほぼ変わらないのが分かる。

 曹植はあらかじめ曹節の身辺の侍女に問い合わせて、寸法を聞き出していたのだろう。

 鄴と臨菑の距離を考えれば、昨日今日命じて作らせたわけではなく、ずいぶん前から準備はしていたに違いない。


「おまえにだけではないぞ。(けん)()にも渡した。

 輿入れの持参品が不揃いだとおかしいからな」


「それは、分かってるけれど」


 曹節からみて姉にあたる曹憲は、曹節と時を同じくして後宮に嫁ぐ身である。

 妹にあたる曹華ひとりは弱年のため鄴に留まるが、一、二年のうちには後宮に入ることになっている。


 ふたりとも三兄のことを普段から素直に慕っている。

 彼女たちには当然、最初から手渡しで贈っただろう。

 だが、三兄の妻に向かってあれだけ毒を吐いた自分のところにも、三兄は結局、自ら足を運んでこの履を贈ってくれたのだという事実が、曹節の胸をひっそりと()いた。


「本物の芙蓉があるとよかったが、いまは無理だからな」


 曹植はぽつりと言い、用は済んだ、とばかりに立ち上がろうとした。


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