(二十四)満ち欠け
曹節は崔氏に背を向けた。
そして牀の脇の卓へと近づき、先ほどからずっと右の掌に握り締めていた花弁を、絹袋に入れなおした。
「肉親以外の誰かはみな、最初は知らないひと。そうよね」
「はい」
「兄さまと義姉さまも他人でいらっしゃった」
「―――ええ」
「どんな感じ?」
「どんな?」
「知らないひとを好きになるって、どんな感じ?たのしい?」
崔氏は一瞬空白を置いてから、深くうなずいた。
それはとてもたのしいこと、ことばにできないほど幸せなこと、苦痛と背中合わせであったとしても色あせない甘美だと、そう伝えたかった。
だがそれは心中での動作でありことばだった。
現実の彼女はただ静止していた。
義妹の「好きになる」はむろん、外からあてがわれた伴侶を愛するよう自ら勉励するという意味である。
それは崔氏自身の人生には課されなかった義務であり、だからこそ何も言えなかった。
「知らないひとと会って知ってゆくことも、それなりに楽しいのかもしれないわね。
ひょっとしたら、そのひとをもっとたくさん、知りたいと思えるようになるかもしれないし。
そのひとのために、何かしたいと思えるようになるかもしれない」
「―――ええ」
曹節はふとふりむき、ゆっくりと崔氏のほうへ歩いてきた。
そして許可を求めるように崔氏の顔を見上げてから、その腹部にそっと手を置いた。
「本当に、痛みはないのですか」
「ええ、大丈夫ですわ」
「この子はもう、ときどき動いたりするのかしら」
「いいえ、まだ……。
もうしばらくしてわたくしが感じるようになっても、外からは当面分かりにくいかと存じます」
「子建兄さまにはさぞかしご不満でしょうね。
同じ血を分けた親なのに不公平だとか何だとか」
実に的確に言い当てられたので、崔氏は思わず笑ってしまった。
曹節も少しだけ口元をほころばせた。
兄たちによく似た涼しげな目元はすでに乾いていた。
奇妙に割り切ったような、おとなびたような面持ちだった。
そしてふたたび許しを乞うように義姉を見上げると、床に膝をつき、目を閉じて義姉の腹部に耳をつけた。
「やっぱりまだ、聞こえない」
目をつぶったままそう言ったが、立ち上がろうとするわけでもなかった。
「義姉さま」
「はい」
「いつか、本当になるかしら」
「本当に?」
「そのひとの子どもを生みたいと、そう思えるようになるかしら」
崔氏は上から見下ろす形で義妹の頭部を見つめた。
先年挿したばかりの銀の笄が、豊かな黒髪の波に洗われる珊瑚のように光っていた。
何も口にできないまま、崔氏はじっと立ち尽くしていた。
やがて曹節は立ち上がり、来てくださってありがとう、と言った。
「義姉さま」
「はい」
「この花はやはり、わたしが後宮へ持ってゆくわ」
「―――ええ」
崔氏はうなずいた。
そしてそれ以上は何も言わずに、辞去の礼を捧げて房の外へ出た。
侍女の手で閉められかけた扉の隙間から義妹の姿が、黒い瞳が垣間見えた。
崔氏は突然に、この華奢な少女を強く抱きしめたい思いに襲われた。
だが曹節は先に目をそらし、扉は静かに閉ざされた。
崔氏も案内役の侍女について歩き始めた。
(節さまは)
わたしが負うよりもずっと重い、後戻りできない定めを受け入れられたのだ、と思った。
来たときとほぼ同じ経路で後宮の正門へ向かいながら、崔氏は来たときと同じように、ある地点で天井の色鮮やかな文様に目を奪われ、数歩もゆかぬところで立ちすくんだ。
そしてそのとき、目が覚めたように思った。
自分はまぎれもなく幸運なむすめなのだ。
少なくとも、この曹家の主だった婦人のなかでは、際立って幸運な立場に相違なかった。
それなりの曲折を経たにせよ、自ら想いを交わした相手とついに正式な婚姻によって結ばれ、双方の家人からも無事に承認と祝福を得た。
嫁ぎ先のこの鄴は郷里清河と同じ冀州に属し、風土もことばもほぼ隔たるところはない。
さらに近日は夫の転封―――曹操の諸子たちのなかでも筆頭の栄転といってよいであろう―――に伴い臨葘侯夫人と呼ばれる身となり、父祖の地斉を慕う崔家の族人たちには、これまでにもまして深い満足を与えているようである。
そして何より、夫が妾を納れないうちに第一子を身籠り、正室としての立場も夫からの関心もいよいよ磐石なものになった。
少なくとも傍目にはそうみえるであろう。
曹家のほかの婦人たち―――若い頃から歌妓として人知れぬ苦労を重ね、ようやく曹操に見初められたのちも当初は妾として正室丁氏からの使役に耐えてきた義母卞氏、戦乱のさなかに略奪され前夫を殺された義姉甄氏、なかば人質の任を負い親族の大半と引き離されながら長江を越えてきたもうひとりの義姉孫氏、そして父親の政略の駒となる運命を受け入れた義妹曹節たち―――彼女たちの誰とくらべても、自分はまぎれもなく幸運なむすめだった。
まして、父親代わりの叔父崔琰はいまや魏国尚書の地位にあり、義父曹操からの信頼の篤さを身で以て証している。
叔父は丞相府官僚から魏国官僚に抜擢されたことで、許都からここ鄴へ戻ってくることになり、崔氏にとっては何よりも心強く喜ばしい栄転であった。
一方で、卞氏や甄氏、孫氏の親族たちもそれぞれ曹家姻戚として卑しからぬ待遇を受けているとはいえ、顕職といえるほど実質のある地位ではなく、まして魏国政権の中枢に参与が許されているわけではないのである。
崔氏は腹部を両手で覆い、抱きすくめるようにそっと力をこめた。
本能の深いところで、こわい、と思った。
すべてが満ち足りてしまえば、あとは欠けてゆくしかない。
欠けるということは第一には曹植からの愛情が薄らいでゆくことであり、それは十分に恐ろしいことであったが、しかしいちど運命のきざはしが下降してしまえば、ことはそれだけに留まらない予感があった。
「臨葘侯夫人?」
前をゆく侍女から振り向きざまに呼びかけられ、崔氏はようやく視線を上げた。
いぶかしげな侍女の表情のその向こうに―――長い廊下が吹き抜けになったあたりに、思いがけず、目によく馴染んだ輪郭が見えた。
お迎えにこられたようです、と教えられる前に崔氏は自ら歩き始め、まもなくほとんど早足になった。
「節に勝手に会いに行ったのか」
いかにも不機嫌そうにつくった声や表情が―――嘘らしい嘘のつけないそれらがたちまち眼前に至る。
その何もかもが本物であることをたしかめるかのように、崔氏は何も言わず彼の首に顔を押し付けるようにして、そっと身を寄せた。
「どうしたのだ」
妻が人前でこんな挙に出るとは思っていなかったらしい曹植はたちまち素の顔に戻り、案じるように訊いた。
「さては、節のやつがまた不遜な口をきいたか」
「いいえ、節さまとはきちんと、お別れをしてまいりました」
「ならばよいが、では何があった」
あなたにどうしてもいま、お会いしたかったのです。
そのことばを口には出せないまま、崔氏はただじっと夫の腕のなかにいた。
こうしていれば、いわれのない不安は最初からなかったものになるはずだと、祈るように目を閉じていた。
ふと、耳元が裂くような寒気に震えた。
初春らしいといえば初春らしい風が、この日初めて吹いたようであった。
それだけ朝から陽気の強い、穏やかな日だったということでもある。
「じきに、仲春だな」
「―――はい。節さまがたのご出立もまもなくです」
「ああ。この分なら例年より暖かくなるだろう。
仲春といえば、あのときの水は冷たかったな。おぼえているか」
「ええ」
笑いを含んだ曹植の問いに、崔氏も笑みを含みながらうなずいた。
理由もない不安に襲われた身重の妻を、少しでもいたわろうとしてくださっているのだと思った。
それでいながらどこか、彼の声が遠いもののように聞こえていた。
「兄弟」篇の本編はこれで完了です。
お読みくださった方々、本当にありがとうございました。
次の「伉儷」篇に入る前に、若干の「覚え書き」と余話を投稿する予定でおります。