(二十三)謝罪
きざはしとはいえ、実際には一階の室内から庭へ降りてゆくための数段に過ぎない。
転落自体は、崔氏が思っていた以上に早く止んだ。
だが、最下段の少し先で転倒がとまった彼女は、肉体の痛みよりは内心の恐慌のために、すぐには立ち上がれなかった。
呼吸を整えたあとでようやく地面に膝をつき、腹部に恐る恐る手を置いてみる。
激しい痛みや変調は感じられなかった。
救われたような思いでゆっくり顔を上げると、いつのまに降りてきたのか、すぐそこに曹節が膝をついていた。
「義姉さま、―――ごめんなさい」
こちらをのぞきこむ顔と声は先ほどとは別人のように青ざめ、弱々しかった。
そこだけ赤らんでいる目元には、透きとおる珠が浮かんでいる。
このかたはまだほんの子どもなのだ、と崔氏はいまさらのように思った。
「ごめんなさい」
声はいよいよ消え入るようにか細くなってゆく。
「こんなつもりじゃなかったの」
「大丈夫ですわ」
意外にもふだんどおりの声が出たことに、崔氏は自分で自分に安堵をおぼえた。
「節さま、お子をあきらめることはありません。
ですからもう、堕胎の薬を手に入れたり、高いところから飛び降りたりなど間違ってもお考えになりませんよう」
ことばの意味を取りかねたかのように、曹節はぱちぱちと瞬きをした。
その小さく滑らかな手に崔氏は自らの手を重ね、生まれたての仔鹿のように濡れた目の奥を見つめながら言った。
「ご不安かとは存じますが、わたくしもいっしょに参りますから、義父上さまに正直にお話申し上げましょう。
むろんそれだけで義父上さまのお許しを得ることはまず不可能ですが、子建さまからの熱心なお口添えがあれば、義父上さまはあるいはご一考くださるやもしれません。
たとえ一縷でも、望みがある限りは賭けてみましょう。
子建さまにはわたくしからもよく、お願い申し上げるようにいたします。
大事な妹君の幸せのためだと思えば、いつまでも些事にこだわってお怒りつづけるはずはございません。そういうかたですもの」
「―――嘘よ」
「え?」
「身ごもってるだなんて、嘘に決まってるのに」
今度は崔氏が瞬きをする番だった。
大きな安堵と、次いでそれに負けないほどの憤りが突然にこみ上げてきた。
階段から落ちたのは単なる事故だとしても、嘘をつかれたこと、曹植の名を使ってまで気持ちを翻弄されたことが許せなかった。
義妹へ向ける口調が、初めて険しさを帯びた。
「どうして、そんなことをおっしゃったのです」
「義姉さまが困るのを見たかったから」
「―――まあ」
「それに」
曹節は唇を結び、崔氏を見つめ返した。
「宜男の花と引き換えに子堕ろしに同意なさるように仕向ければ、のちのちまでずっと、拭いがたい心の重荷になるでしょう。
お腹のお子が生まれたら、義姉さまはその子をごらんになるたびにきっと、他人の堕胎を助けたことを思い出されるはずだと」
「―――どうして、そんなひどいことを」
あまりにはっきりした悪意に、崔氏はほとんど恐れに似たものをおぼえた。
無意識のうちに、腹部を両手で覆いかばう形になった。
「わたくしはそこまで、節さまのお気持ちを害するようなことをいたしましたか」
「別に、何もされていないけど。ただ腹が立ったのよ」
「なぜです」
「ご自分は好いた相手と結ばれていながら、ひとが顔も知らない相手に嫁ぐのをさもすばらしいことのように言い立てなさるのだもの」
「あ……」
「すべてが大義にかなって崇高で、誰もが満ち足りているみたいに。
いかにも儒者の家のひとらしい欺瞞だと思ったわ」
崔氏は思わず目を伏せた。
ふくらみかけた腹部が目に入った。
曹植の子―――このかたと添い遂げたいと願い、そして結ばれた男の子どもだった。
「―――欺瞞だったつもりはございません」
「そう」
「ですが、わたくしにも非はあったと思います。お許しください」
「別にいいけど。わたしもやりすぎたから」
曹節は潤んだ目を伏せ、そしてぽつりと言った。
「思ってたよりは、義姉さまって変なひと」
「変でしょうか」
「婚前にできた子を産めだなんて。一瞬気が触れたのかと思った」
「むろん、父母の命によらずに男女が相識るのはまちがったことですが―――」
「まちがいどころか、本当にお父様のお耳に入れてしかもわたしを擁護なんかしたら、義姉さままで逆鱗に触れるわよ」
「最初からあきらめるよりは、いいと思ったのです」
「どうして」
「節さまなら、状況や他者の情動に流されるようにして身重になられることはあるまいと思ったのです。
つまり、お相手は節さまご自身で選ばれたかたに違いないと」
「だったらどうなの」
崔氏は答えようとして、少しためらった。
これはいまの自分だからこそ辿り着いた答えであって、必ずしも万人の同意や共感を得られるとは思われない。
だが、その答えが自分を突き動かしたことは本当だった。
そこに欺瞞はなかった。
「好きなひとの子どもを産むのは、すばらしいことです。
―――天子さまの御許へ上がるよりも、すばらしいことです。
だから、もし、もしわずかでも産みたいというお気持ちがおありなら、あきらめていただきたくないと思いました」
曹節は目を上げないまま、ふてくされたように黙り込んだ。
そして崔氏のほうに手を伸ばし、一緒に立ち上がろうとした。
「節さま、大丈夫ですわ、ひとりで歩けます」
「義姉さまに何かあったら、わたしが子建兄さまに怒られるのよ」
曹節は怒ったような声で言いながら、自分より頭ひとつ分高い義姉に肩を貸し、石段を登り始めた。崔氏も結局は従順にそれを受け入れた。
最後の段を登りかけたとき、ふと義妹の問いが聞こえた。
「義姉さまは、そんなにも男の子がほしいの」
「もちろん」
「どうして」
「妻の務めですから」
曹節は何も言わなかった。
義姉のために厚い扉を押さえ、ふたりともに房のなかへ戻ってから、独り言のように口をひらいた。
「本当は」
「はい」
「子建兄さまとは、少し前に仲直りしているの」
「え?」
「仲直りというか、兄さまは“おまえを許したわけではないからな”と不本意そうにおっしゃりながらだけど。
このあいだおひとりで、この房へ会いに来て下さったの」
「そうだったのですか」
崔氏はふっと気が抜けたような思いだった。しかしいやな気分ではなかった。
曹植はもう、わだかまりのないまま妹を許都へ見送ることができるのだ。
彼からも嘘をつかれた形にはなるが、自分の心境を思いやってくれたのだと思った。
「宜男の花は、そのとき兄さまがくださったの。
“渡しそびれていた”とか付け加えて。
男児を授かるための祈願を込めた詩と一緒に」
「まあ」
「わたしは最初、断ったけれど」
「なぜですか」
「おおかた、義姉さまに贈られたものの余りものだろうと思ったから」
「そんな、ちがいますわ」
「ええ、兄さまもそうおっしゃったわ。
―――わたしも、これがたぶん兄さまとふたりきりで会う最後だと思ったから、結局は受け取ったのだけど。
実際、先ほどの義姉さまのご様子からすると、兄さまからあの花を贈られていないというのは本当なのね」
「はい。いただいてはおりません」
「わたしのほうが大切にされてるってことかしら」
「―――ええ、それは、もちろん」
「とまで思い込むほど、わたしが子どもだと思っていらっしゃるの?」
思わず瞬きをした崔氏の顔を、曹節は初めて振り仰いだ。
「兄さまにそのとき、なぜ義姉さまのためにとっておかないのか訊いたのよ。
理由は薄々分かってはいたけど」
「子建さまは、何と」
「無事に生まれてくれさえすれば、男でも女でもかまうことはないからだと。
あれが腹を痛める子なれば、と」
崔氏はふたたび瞬きをした。顔が熱くなってゆくのが分かった。