(二十二)取り引き
「節さま、それは―――それは、どういう」
まるで我が身に変調が表れたかのように、崔氏の呼吸は不規則になりはじめた。
「そのままの意味ですわ。
だから、身軽にならないといけないの。輿入れの前に」
「それは―――節さま、一体どうして、そんなことに」
「まさか義姉さま、身重になる仕組みをご存じないの」
曹節はおかしそうに目を細めながら袖で口元を覆った。
崔氏はただ青ざめた顔で義妹を見ている。
「見知らぬ者から、暴行を受けられたのですか」
「ご心配なく、そんなのではないわ」
「―――お相手は、一体」
「そんなことが大事かしら。天子さま以外の誰かですわ」
「それは、そう、でしょうけれど―――節さま、一体、なんということを」
「条件というのは」
ひたすら顔色を失ってゆく義姉とは対照的に、曹節は淡々と本来の話題に戻った。
「紅花を調達してきてくださったら、代わりに宜男を差し上げるわ」
「紅花」
紅花といえば臙脂の原料であり、多効能の薬草としても重宝されるが、妊婦にとっては流産を引き起こしうる忌むべきもの―――意図的に服用するならば、堕胎の薬である。
崔氏は瞬きもせずに義妹を見つめていた。
「顔に施して装うための臙脂はともかく、服用する生薬はやはり医師から手に入れるほかないもの。
義姉さまはいま、定期的に侍医の診療をお受けになっているでしょう。
その際、“族人のひとりに不行跡があって”とか何とか理由をつけてもらってくださいな。簡単でしょう」
「簡単だなんて、そんな」
「だって、義姉さまのおっしゃるすばらしい天子さまの御許にゆくには、それしかないんだわ」
「それは、そうですけれど」
「わたしを助けると思って、どうかお取り計らいくださいまし」
そうは言いつつも、曹節の口調には懇願というほどの切実さはなかった。
むしろ、自身の命運をもどこかおもしろがっているような響きすらある。
「でも、ですが、わたくしには」
「宜男の花をご所望ではなかったの」
「それは、―――」
「最初のお子が男児だったら、子建兄さまはどんなにかお喜びになることでしょうね」
「それは、もちろん」
「いちど身ごもることができたからとて、二度目があるとは限りませんわ。
初産で難儀されたら、二度と孕めなくなる場合もあるのですってね。
義姉さまはもちろん、ご存じでしょうけれど」
崔氏は口をひらきかけたものの、何も言わなかった。
「そもそも、義姉さまがこのさき何度身ごもられようと、そのたびに女児ばかりだったら、兄さまとていつかは見切りをつけて妾をお納れにならざるをえませんわ。
そうでしょう?男児を儲けるために手を尽くすのは、人の子の務めですもの。
妾を納れるときには、妻を娶るときほどの厳しい条件や制約はないから、兄さまも、ご自分の嗜好にかなう者をいくらでも選べるのではなくて。
歌舞にすぐれた女子たち―――兄さまの作った詩歌を艶麗に唱う者とか、作った音曲に合わせて軽やかに舞う者とか。
あるいは、初恋のひとに似た面差しを持つ者とか?」
曹節は花弁を無造作につまんだり散らしたりしながら、淡々と言った。
もとより青ざめていた崔氏の顔は、透き通る蝋のようにいよいよ血の気をなくし、硬直していった。
長い対峙のすえ、最初に目を伏せたのは崔氏のほうだった。
「節さま」
「何ですか」
「わたくしには、できません」
「―――そう。手を貸してはくださらないのね」
「ですが節さま」
「別に、かまわないわ」
崔氏が言い終わらないうちに、曹節は背を向けて房の奥のほうへ歩き出した。
見るとそちらは窓ばかりではなく、中庭に出るための扉もある。
曹節が厚い戸板を押すと、初春の淡い陽光に照らされる庭園が見えた。
崔氏の視点からは見えないが、遠近感からすると、園中へ降りてゆくための階段もあるらしい。
この建物の床と地面の間には、それなりの高低差があるということである。
崔氏ははっと息をのみ、駆け出した。
「節さま、お待ちください」
「何をなさるの」
階段にさしかかる手前で背後から突然抱きとめられて、曹節は身をよじった。
「放して」
「お部屋に戻りましょう」
「放してったら」
「ここからお降りにならないと、―――飛び降りたりなさらないと誓ってくださいますか」
「わたしが行きたいところに行くのは勝手でしょう」
「いいえ、おひとりの身体ではないのです」
「義姉さまの知ったことじゃないわ」
「でももう知ってしまいました。もういちど、先ほどのことをきちんと」
「あれで全部よ。放して」
「お部屋に戻ってくださるなら放します」
「まとわりつかないでって言ってるの!」
「ですが、わたくしはあなたの兄君の妻です。放っておくことは―――」
瞬間、曹節はかっとなったように今までにも増して激しく身をよじり、義姉の手をついに振り払った。
思いがけないほどの力に崔氏は上体と足元の均衡を崩した。
気づいたときには段上で仰向きになり、次の瞬間には転がり落ちていた。