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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
112/166

(二十一)宜男花

「こちらでございます」


 年配の侍女の恭しい声に呼びかけられて、崔氏ははっと瞬きをした。

 廊下を折れた先で目に入った天井の彩色があまりにみごとで、思わず立ち止まり見惚れてしまったのである。


 魏公の後宮―――曹操のあまたの妻妾と幼少の公子たち、そして未婚の公女たちが住まう宮殿であった。

 この後宮を含む魏公の諸宮殿は、昨年の魏国成立とほぼ時期を同じくして設計され、(ぎょう)の北部区画中央を占めていた丞相邸を拡張する形で建造が始まったものである。


 その規模があまりに大きいため、鄴の近郊だけでは十分な材木をそろえられず、松材で有名な上党(じょうとう)郡などからも調達がおこなわれたほどだった。

 正殿や前殿、後宮など中枢となる宮殿はおおむね完成しており、魏公の家族らもすでに移り住んで生活している。


 崔氏にはむろん曹家の婦として義母(べん)氏に日々仕える義務があるので、この新設の後宮を訪れること自体は初めてではなかったが、卞氏の居室以外の区画に足を踏み入れるのはほぼ初めてのことだった。


 訪問先は曹節の(へや)である。

 あの夕刻以来、曹植は彼にしては珍しく怒りが収まらないらしく、「あいつから謝りに来るまでは会わん」ときっぱり言い捨て、崔氏が(ねんご)ろに諌めても翻意しなかった。


 それでも、常ならば気長に待つという手もある。

 しかし、曹節はあと一月もせずに天子の後宮に入る身である。

 朝廷からの使者の車に乗り込むそのときまでに和解できなければ、血のつながった兄妹でありながら、一生互いにわだかまりを抱えて生きてゆくことになるかもしれない。


 崔氏も嫁ぐ前、叔父とのあいだに修復しがたい溝が生まれたのではないかと不安だった時期がある。

 一時期だけでもあれほど苦しかったのに、身近な人々がそんな思いを一生負い込むかもしれないことを思うと、看過するわけにはいかなかった。


 むろん、今回の訪問は曹植には告げていない。

 そしていま、目の前には顔が映りそうなほどに光沢豊かな漆塗りの扉がある。

 目より高い位置には緻密な彫りものがほどこされ、蔓草の文様が幾重にも絡み合っている。


 しかしそれより目を引くのは、周辺の人員の多さである。

 むろん一般官僚らしき男の影はないが、比較的体格の立派な宦官と宮女が行き交い、あまり間隔をおかずに配置されている。

 ひょっとしたら先日曹節が臨菑(りんし)侯邸を訪れたのは、周囲の者に無断でおこなわれたのかもしれなかった。


「臨菑侯夫人がおいでになりました」


 侍女の声に一瞬間を置いてから、「入っていただいて」という許可が返ってきた。

 侍女はゆっくりと扉を開けた。崔氏もゆっくりと一礼し、敷居をまたいだ。


 彼女たち夫婦の(ねや)ほどではないが、広い房である。

 南向きの窓から午前の光が淡く差し込み、房の奥に据えられた大きな(ねどこ)(うすぎぬ)(とばり)を暖めている。

 曹節は牀から少し離れた場所に置かれた(ながいす)と鏡台の間に立ち上がり、少しの間こちらを見つめていたが、やがて自分から近づいてきた。


「何の御用でしょう」


 兄の妻に対する礼をきちんととり、時候の挨拶を交わしてから、曹節はさしたる敵意も動揺もなく尋ねた。

 その簡潔な態度は堂に入ったものだった。

 ゆえに、崔氏も前置きなく率直に伝えることにした。


「子建さまに、謝っていただきたいのです」


「義姉さまに、ではないの」


「わたくしは気にしておりません」


「そうおっしゃると思ったわ」


「謝っていただくことはできないのですか」


「義姉さまご自身が気になさっていないのに、なぜ子建兄さまの怒りを正当だと思わなければならないの」


「それは―――どちらかに折れていただかなくては、どちらも後悔なさるからです」


「わたしがもうすぐ輿入れしてしまうから?」


「ええ」


「べつに、いいと思うわ」


「そんな」


「だって、義姉さまのおっしゃるように天子さまがすばらしいおかたなら、後宮暮らしを楽しめばいいのではない?

 子建兄さまとのいさかいなんてすぐ忘れられると思うわ」


「でも、節さまは子建さまを好いておられるはず」


「どうでもいいことだわ。女子は家を出たら他人扱いだもの」


「そんなことはありません。子建さまは節さまのことを愛してらっしゃるわ。

 たとえ他家に嫁がれても、それは変わることはありません」


「ずいぶんはっきりとおっしゃるのね。

 夫婦だからというだけで、他人の胸中にどうやって確信を持てるのかしら」


「夫婦だから、というわけではありません」


「では何なの」


「それは」


 崔氏はことばに詰まった。

 その確信がどこから来るのか、正直なところ自分でもよく分かっていない。

 だが、確信がそこにあることだけは分かるのだった。


「―――あのかたをもっとよく知りたいと、ずっとそう思い続けているからだと」


 ふと、曹節の目の奥を何かがよぎったようだった。

 口論が始まりかけていたことすら忘れたように、そうだわ、と彼女は突然快活に両手を叩いて言った。


「せっかく来てくださったのだから、いいものを見せてさしあげるわ」


 曹節は牀の脇にある卓に近づき、そこに置かれた青緑玉づくりの化粧箱の下段を開け、匂い袋のような小さな朱色の絹袋をとりだした。

 口を絞る紐を解いて傾けると、白い掌に薄紅色の花弁が次々と降り積もった。


「それは?」


宜男(ぎだん)の花です」


「まあ、宜男」


 崔氏は思わず声を上げた。

 宜男とは丈が六七尺ほどもある草の名であり、沢辺などの湿地に繁殖する。

 蓮によく似たその花を身に佩びたり根を服用したりすれば、名前のとおり男児がさずかると信じられている。

 その薬効は通常、すでに身籠っている婦人に対して現れるものとされるが、妊娠の兆候のない人妻や婚礼を控えた女子が男児多生を祈って服用することも珍しくない。


 本来はさほど稀少な草でもないはずだが、鄴城内で手に入れるのは現今困難をきわめている。

 むろん、魏の公族や高官の妻妾たちが我先にと高値で買い求めるからである。

 まして、根よりもさらに流通が限られる宜男の花を、新春を迎えたばかりのいまの時期に入手するのは至難のわざと言えた。


 崔氏は昨冬に懐妊を知って以来、宜男の花を見るのは初めてである。

 差し出された掌上の花弁に憧憬(しょうけい)を隠し切れない思いで触れてみると、わずかに水分を失いかけてはいるが、肌触りもたしかに蓮のようだった。


(―――ああ、どうか) 


 いま触れた一瞬だけでも、腹の子が男児である可能性を高めてくれるようにと、崔氏は切に願った。


「まことに、摘み取られたばかりなのですね。

 この季節に宜男の花が咲いているなんて」


銅雀(どうじゃく)園の温室で育てられているの。

 あまり公開されないけれど」


「まあ、そうだったのですか。

 ともあれ、安堵いたしました」


「何が?」


「節さまも男児を―――天子さまのもとで丈夫な皇子さまを授かることを望んでおられるのですね。すばらしいことですわ」


「すばらしいこと、ね」


「お輿入れからほどなくして男児が生まれれば、もとより仁愛の深さで名高い天子さまも、節さまのことをいよいよ愛おしく思われましょう」


「これは、侍女が気を回して摘んで来てくれただけですわ。

 わたしが望んで手に入れたものではありません」


「まあ……」


「ほしかったら、差し上げてもいいわ」


「そんなわけにはまいりません。

 いまはお使いになられなくとも、いずれは必ずお役に立ちましょう。

 どうか後宮へと携えてゆかれますよう」


「いいのよ。義姉さまはすぐにでもほしいのでしょう。

 いまこのときにもお腹のお子は育っているのだから」


「それは―――」


「ご不要ですか」


 崔氏はためらったが、ものほしそうな色を浮かべる自分のまなざしを、どうしても抑えられなかった。

 長い間迷った末に、小さな声で答えた。


「もし、本当に、よろしいのでしたら」


「いいわ。でも、条件があるの」


「条件」


「わたし、身ごもっているの」


 一瞬の静止ののち、崔氏は義妹の目を見つめた。

 笑ってはいなかった。


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