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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
111/166

(二十)微軀を帝室に委ぬ

「たいしておもしろくないわ」


 曹節はまた(ねどこ)の近くへ戻ってくると、ことばどおりにつまらなそうな顔で竹簡を返した。

 曹植は別に気を悪くするでもなく、


「まだ練っているのだ」


とのんびりした面持ちで答えた。


 曹節の所用はこれで済んだようであったが、すぐに立ち去るでもなく、牀上に座る兄夫婦を黙って眺めていた。

 また背に日を浴びる形となり、崔氏には表情がよく分からない。

 曹植がふと、気になったように言った。


「おまえはこんなところにいていいのか。

 輿入れまでもう一月を切ったのだ。諸々の予定が詰まっているはずだろう」


「兄さまも、つまらないひとになられたわよね」


「なんだって?」


「むかしはわたしと同じで―――わたしの手を引いて、馬に乗せて逃げだしたり一緒に竹薮のなかに潜んでくれたのに。いまは捕まえるほうのひと」


「いまむかしの問題ではない。ことは帝室と我が家の紐帯(ちゅうたい)にかかわるからだ」


「それが捕まえるほうだっていうのよ」


「子どものようなことをいうのではない。

 そなたはすでに(こうがい)を挿した身だろう。

 男児のほうが五年の猶予はあるが、俺とて成年したおりにはそれなりに心構えを正したのだ。


 周囲の庇護のもとで自由を喫することの心地よさは分かる。

 だがそれをこれまで享受してきたならば、これからは家のために―――父上母上の栄誉のために何をなすべきかをまず考えろ」


 父母の名を出されると、曹節は黙った。

 夫の語勢の意外な厳しさに、崔氏はふといたたまれなさをおぼえた。

 曹節はたしかに女子としては成人しているとはいえ、年が明けて数え十六を迎えたばかりであり、自分が曹植と出逢った歳よりさらにひとつ若いのである。


「子建さま、節さまは何も自侭(じまま)な暮らしを望んでおられるわけではございますまい。

 婚礼を間近に控えれば、女子ならば我知らず不安や抵抗が芽生えるのは当たり前ですわ。


 まして宮中には特殊な作法やしきたりが山のようにあるのですし、皇太后さまは空位ですけれど、目上としてお仕えすべき皇后さまはいらっしゃるのですから」


「別にそれぐらい、すぐこなせるようになるわ。たいした不安ではありません」


矜持(きょうじ)をお持ちになるのはいいことですわ。

 節さまはご聡明ですから、きっと大丈夫ですわね。

 それに、天子さまもすばらしいかたですものね」


 曹節の仔猫のような丸い瞳が少し動いたようであった。

 が、表情全体はやはり読み取りにくい。


「知っているようなことをおっしゃるのね」


「もちろん直接には存じ上げませんけれど、ご幼少のみぎりよりご英明とご慈愛深さを謳われて久しいかただということは拝承しております。

 まちがっても、お妃さまを含め身辺のかたがたを粗末に扱われるようなおかたではございますまい。


 節さまがたが魏公のご息女として嫁がれるのはむろん、大切な意味がございますけれど、―――たとえそうでなかったとしても、天子さまは節さまがたをきっと大切にしてくださいますわ」


 曹節は黙って崔氏を見ていた。それから口をひらいた。


「義姉さまは」


「はい」


「どうして兄さまと結婚されたの」


「もちろん、叔父の命を受けてのことです」「俺を好いたからだ」


 崔氏と曹植の声がほぼ重なった。


「兄さまは黙ってて」


 羞恥のあまり声も出ない義姉の胸中を読み取ったかのように兄を牽制しながら、曹節は改めて顔を義姉に向けた。


「わたしが聞いた話では、義姉さまは清河のご本邸のほうで子建兄さまと偶然お逢いになられて、兄さまに思慕を寄せられたのだというけど」


 崔氏は指先まで凍りつく一方、今度は目元から耳朶まで朱色に染まりきった。

 たしかに婚礼の前、清河の本家にいたころにも、好奇心旺盛な族妹たちからそれとなく尋ねられたことはあったが、こんなにも直截な訊かれかたをしたのは初めてである。


「……それは、その……ええ、そう……だったかも、しれないのですけれど……」


「どこがそんなによかったの?」


「そ、それは、その……たとえば、つまり……」


「俺が答えてやってもいいぞ」


「兄さまは黙っててってば。

 文章がうまいから?列侯の爵位持ちだから?お父さまの嫡子のひとりだから?」


 崔氏にはいずれにも小さく首を振った。

 それらは彼が彼であるために大事な一部だとは思うが、それが必須だと思ったことはなかった。


「ではどこなの?」


「その、ひとことでは、うまく……」


「前から思ってたのだけど、なんていうか、釣り合わないわよね、義姉さまたちって」


 崔氏は火照りつづけていた顔をふと上げた。


「わたくしの、実家のことでしょうか」


「よその門地なんてわたしがどうこう言うことではないわ。

 お父さまが通婚をみとめられたのだから、義姉さまのお家は立派なお家だと、わたしも思っています」


「―――ありがとうございます」


「釣り合わないっていうのはつまり、あなたたちがどこに惹かれ合ったのか分からないってこと」


「惹かれる……」


「最初の出会いは兄さまが溺れかけていたのを助けてくださったとか、そんなふうに聞いたのだけど」


「ええ、それは、実際は溺れていらっしゃらなかったのだけれど、水辺でお逢いしたのは本当です」


「互いに服が濡れて乾かさざるを得なくなって、そのときに兄さまに素肌をさらしたから嫁ぐほかないと決心なさったとか、そういうことではないの?」


「節さま!」


「おい、いいかげんにしろ」


 さすがに曹植の声にも、これまでとは質の違う厳しさが滲んだ。

 かといって曹節は物怖じすることもなく、崔氏のほうだけをじっと見据えている。


「さもなくば、男性と同じ水に漬かったら身ごもると信じておられて、兄さまと結婚せざるをえないと思いこまれたとかではないのかしら。

 義姉さまって見るからにそういう感じの、そういう育ちかたをしてきたひとだもの」


「そんな、そんなことはありません」


「でもそう見えるわ。

 厳しい儒者の家庭で育って、肝心なことは何ひとつ教えてもらえなくて、自分を抑えて礼法の枠にはまりこむためだけの(しつけ)を受けてきた、ありきたりのひと。

 いましがたの受け答えも、みんな予想どおり。


 お人形みたいにきれいなひとだとは思うけど、(しん)の義姉さまみたいにそこにいるだけで人を感動させるほどじゃないし。


 だからどうして子建兄さまが娶る気になられたのか、ちっとも分からない」


「節!おまえ―――」


 崔氏さえかつて聞いたことのないほど険しい声で曹植が呼び止めようとするのも聞かず、曹節は来たときと同じように音もなく背を向けて去っていった。


 勢い込んで牀から降りた曹植は(くつ)をはきかけたものの、背後から腕をとられて振り返った。

 気にいたしませんわ、と崔氏はささやきかけ、彼の手の甲に手を重ねた。


 そして、こういうところが型どおりの女なのだろう、と自分でも思った。


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