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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(十八)広く淑媛を求む

「健康か。相変わらず妙なことを言う」


「妙なことではありません。

 殿方の壮健ぶりは妻妾や子どもの数によって計られると、世の中ではそのように見なされているではありませんか」


「では、俺の健康を証してそなたを安堵させてやるためには、妾は多ければ多いほどいいということか」


「そこまでは申しておりません。

 何事にも、その、中庸(ちゅうよう)というものがございます」


耽溺(たんでき)に至らねばよいのだろう。

 ともあれそなたが()れよというのなら仕方ない。

 家宰に命じて、明日にでも二三の美姫を見つくろわせようぞ」


「そんな、早すぎます」


 反射的に口走ってしまい、崔氏の頬はいよいよ濃い朱色に染まった。

 曹植は片頬で笑いを噛み殺している。


「崔夫人よ、人間は作為のないのがいちばんだ」


「子建さまがそうおっしゃると、実に真理のように聞こえますわ」


 全身が火照るほどの羞恥に耐えながら、崔氏はできるだけ嫌味たらしく聞こえるように言ってやった。

 むろんそこには、生まれてこのかた自己を矯正しようとする努力とはほぼ無縁に生きてきた曹植に対して、大いに非難を込めたつもりである。


 しかし彼自身はむしろ賛辞と受け取ったのか、大らかな笑みをいよいよ広げた。


「そなたそんなにも俺が好きか」


 いいかげんになさいませ、と夫の頭をよほど膝からはたき落としてやろうかと崔氏は思ったが、すんでのところで自制した。

 そのことばが端的に真実を突いている以上は、黙って唇を噛み締めるほかはない。


「全く、突然何を言い出すかと思えば」


「身重の妻は殿方にはご不自由だと伺っております。

 唐突だったつもりはございません」


「十分唐突ではないか。

 ―――ひょっとして、このあいだ母上に懐妊後初めて見舞っていただいたとき、(しん)の義姉上の美談でも聞かされたのか」


 ふと思い当たったようにつぶやくと、彼の声は少し静けさを取り戻した。

 その変化に気づきながら、崔氏は小さくうなずいた。






 時には使用人に混じって自ら農作業にも従事しなければならない清河崔氏一門に生まれた彼女とは違い、曹丕の妻甄氏は代々二千石(郡太守級)を輩出する名家かつきわめて富裕な門戸の出身であり、広大な邸宅の奥深くで人目に触れることなく育て上げられてきた本物の令嬢である。


 しかし、恵まれぬいたその生まれ育ちと絶世の美貌ばかりでなく、情愛深さや聡明さにおいても衆に抜きん出た有徳の婦人であることは、いまや世に広く知られている。


 彼女のありあまる美質を伝える逸話は幼少時から事欠かないものの、とりわけ嫉妬心を持たないという心の広さは、魏公室の内外で盛んに称えられるところだった。


 甄氏は曹丕より五歳も年長であるが、夫が年若い側室を次々に納れても醜い嫉妬ひとつ見せないばかりか、彼女たちを実の妹のようにいたわり、寵愛を受けている者たちにはその立場を後押ししてやり、寵愛の薄い者たちには夫の心にかなう術を教え諭すほどこまやかに気を配り、分け隔てなく情を注いでいるのだという。


 さらには曹丕自身に対しても、あるとき古代の聖帝の例を挙げて、殿方はあまたの妻妾を迎えてこそ子孫繁栄を成し遂げ祖宗の祭祀を存続せしむることができるのですから、とさらなる蓄妾を勧めたと伝えられる。


(無私のひととは、義姉上さまのようなおかたをいうに違いない)


 この話を聞かせてくれた義母(べん)氏の前で、崔氏は礼儀として伏せていた目をいよいよ深く伏せずにはいられなかった。


 卞氏自身きわめて聡明で情の深い婦人であるから、むろん三男の(よめ)に当てつける意図などさらさらなく、単に身近な模範として甄氏を挙げたにちがいないが、そうして兄嫁の婦徳の高さを知らしめられるにつけ、崔氏は我が身を省みないわけにはいかなかった。


 士たる者にとって生涯最大にして最低限まっとうしなければならない義務は、むろん男児を儲けて父祖の祭祀を絶やさぬことである。

 列侯の地位にある曹植とていつでも軍号を授けられて戦地に赴く可能性はあるのだから、成人したうえは一刻も早く継嗣を儲けておくに越したことはない。


(婚礼から一年を経ても懐妊の兆しがなかった時点で、わたしもやはり身辺の侍女たちのなかから、健康で器量優れた者を子建さまにお勧めするべきだったのだ)


と崔氏は今さらのように自分を責めかけたが、それが本心ではないこともまた分かっていた。


 結婚直前までは、夫が妾を持つなど誰でも経験していることなのだから―――富貴の家に嫁ぐならばなおのこと―――自分にもきっとやり過ごせるだろうと、簡単に思っていた。

 だが、親迎(しんげい)の車に導かれた先で曹植と婚礼の杯を交わし、幾重にもめぐらされた羅帳のなかで彼にすべてを預けてしまうと、世界はずいぶん変わってしまった。


 学問の手ほどきをしてくれた叔父の意を奉じて、『列女伝(れつじょでん)』や古今の良妻賢母の故事を載せた史書には幼いころから親しんできたが、今ではそれらをどれほど読み返したところで、曹植がどこか見知らぬ場所で―――あるいは文字通りこの邸の側室にて―――他の女を抱き寄せその名を呼びかける場面を思っただけで、目の前が灰色に染まってゆくような気がする。


 ましてや、彼がその女たちと肌を重ね、親密な寝物語を交わし、いずれは子どもを儲けて当たり前のように可愛がる情景などは、その片鱗を思い浮かべるのさえ耐え難いことだった。


「誠に、ご立派なお心映えでいらっしゃいます」


「俺か?」


「義姉上さまのことです」


「義姉上の何についてだ」


 あのかたがいかに優れた婦人であられるかはあなたのほうがよほどよく分かっておられましょうに、と崔氏はまた少し胸が苦しくなった。


「嫉妬のような醜悪な感情とは無縁でいらっしゃることが、でございます。

 何の作為も欺瞞もなく、ただ夫君のご多幸とお家の繁栄を心から祈るあまり別の婦人をお(とこ)に侍らせるなど、誰にでもできることではございません。

 ―――少なくとも、わたくしにはできません」


「なぜそんなに悲しげな顔をする」


「己の狭量(きょうりょう)をどうすればいいのか分からないのです」


 曹植は妻を見返し、困惑したように言った。


「それを狭量と呼ぶのは勝手だが、そなたの狭量さが俺は嫌いではない」


「わたくしは嫌いです」


「なぜだ」


「ひとは向上するべきだからです」


「そなた、義姉上を模範としたいのか」


 崔氏は答えず、ただ目元を淡く染めた。


「あのかたのなさりようを、―――何のためらいもなく夫に側室を勧める婦人を良い妻だと思うのか」


「むろんです」


「そなたがそんな女になったら俺は、―――何というか、悲しむぞ」


 崔氏は目を丸くした。夫が甄夫人のことを「そんな女」などと形容するのが全く意外だったのだ。


「子桓兄上とて、人前では義姉上のそのようなご寛容を称揚してはおられるが、ご心中には鬱屈(うっくつ)するものがあるに相違ない。

 義姉上を愛するお気持ちが深ければ、なおのことだ」


「―――そういうものでございましょうか」


「そういうものだ。兄上はあのようにご心情をなかなか顔に表されないかただから、(はた)から推察するほかないが、俺には我がことのように感じられる」


 曹植の声は、いまやすっかり平静になっていた。

 そんなふうに確信できるのは長兄への親愛がそれほど深いゆえなのか、それとも甄夫人を愛する者という立場を同じくするがゆえにそれほど深く共感できるのか、崔氏には分からなかった。

 だがおそらく、分からないままでいたほうがいいのだろうと思った。


「そなたが俺の寝所によその婦女子を平然と送りこんだりしたら、俺は実にやるせなく思うぞ。

 厚意はありがたく受け取ってもよいが」


「やはりお喜びになるではありませんか」


「ともかく、そなたは今後とも狭量であればよいのだ」


 曹植はそんなことを言い放ちながら、もういちど寝返りを打って()の推敲に戻った。

 崔氏は口をひらきかけたものの、結局何も言わずに彼の(びん)に手をやり、わずかな乱れを直そうとした。


 そのときふっと、頭上から影が差すのを感じた。


「日があるうちから、たいそう仲のいいこと」


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