(十七)胎動
「今日はどうだった」
「動く気配はまだ、ないようです」
そうか、と曹植はやや肩を落としたが、すぐに気を取り直したように、
「念のため聴いてみたい」
と言い募った。
崔氏は少しためらったが、夫の面持ちの真摯な無邪気さにうなずかざるをえなかった。
夫婦ともに閨の奥の牀上に座り、四方の帳をしっかり下ろしてから崔氏が膝を明け渡す。
一種の儀式にも似たこの習慣が始まった当初、妻のあまりに厳重な警戒ぶりに、曹植は「却ってやましいことをしていると思われるぞ」と困惑を示したものだが、さりとてまだ日も沈まぬうちに帳の外で、たとえば窓辺に置いた榻の上で堂々と夫と接触するなど、崔氏にはとてもできそうにない。
この一線ばかりはいちども譲ることなく、いまに至っているのだった。
閨に入ったときから冠をとっていた曹植は待ちかねたように、だが恐る恐るといったようすで妻の膝に頭を横たえ、腹部に耳をつけた。
帳は四方をすきまなく閉ざしているとはいえごく薄い紗で仕立てられているので、西南向きの窓から入る朱色の陽光はほのかに生地を透き通り、ふたりの顔や肩をまだらな暖色に染めている。
建安十九年(二一四)正月、魏国が創始されてから初めての春であった。
崔氏が曹家に嫁いでからはほぼ二年が経とうとしている。
昨冬に現れた懐妊の兆候はいまや疑うべくもない事実となり、七月中と目される初めての出産を控えて、臨菑侯邸―――つい先日まで平原侯邸と呼ばれていたこの邸宅の奥向きは、少しずつせわしなさを増していた。
当主の曹植はさすがに、乳母の選定や嬰児の衣類の調達などに自ら関わることこそないものの、一日の勤めが終わる夕刻には妻の閨を訪れてその日の体調を―――そして腹の子のようすを尋ねることを日課にしていた。
いくら正妻の居所とはいえ、士人たる者があまり明るいうちから奥向きに足を踏み入れるのはむろん、外聞に響くふるまいである。
崔氏も当初は諌めようとしたが、こればかりは曹植も譲らなかったのでついに折れた。
何より、夕刻から数時間後にはいずれにしても顔を合わせるのに、夫はその間さえ待てずに腹の子を気遣わずにいられないということが、やはりうれしかった。
「聴こえぬ」
帯越しに妻の腹部に耳を当てたまま曹植はつぶやいた。
真剣に不服そうなそのようすが、崔氏にはどこか可笑しい。
「五ヶ月ごろまでは、動きはなかなか分からぬものだそうですわ」
「五ヶ月は長すぎよう」
「ひとによっては四ヶ月なかばでも赤子の動きを感じるそうですが……外界からでも分かるのは、いずれにしても少し遅くなりましょう」
「母親だけの特権か。不公平なものだな」
曹植はしみじみと遺憾そうに眉をしかめ、それからようやく上体を起こしかけたが、思い直したようにまた膝に戻った。
「いかがなさいました」
「そなただいぶ肉付きがよくなったな」
すでに夕日に色づいている崔氏の目元がいっそう赤くなった。
曹植は少し笑った。
「なじっているのではない。前より居心地がよくなった。
日が落ちきるまでしばらくこうしていてよいか。
書き下ろさねばならぬ賦がある」
「作賦とは、―――この姿勢と何の関係がございます」
「何もないが、佳品は心穏やかな境地から生まれるものだ」
そういうと、曹植はほとんど崔氏の返事を待たずに自らの袖の中に手をやり、下書き用らしい竹簡を取り出した。
そして腕を伸ばして、牀の傍らにある卓上から硯を引き寄せ、筆をとった。
(しかたのないかた)
と思いながらも、崔氏は結局それ以上強く拒むことはせず、夫の頭部によく馴染むよう、膝の位置を少しずらした。
それは何も、妻は原則として夫に逆らうべきではない、という義務感からばかりではない。
決して口には出せないが、こうして心のままに求められ、触れ合っていられることがただうれしく、応えずにはいられないのだった。
こんなふうにくつろぎきった彼のそばにいて、何の虚飾もないのびやかな声を聞き表情を見ていると、息が止まるような昂揚感こそ生じないものの、胸のうちがいつも温かいもので満たされてくる。
それはやがてより深いところに沈殿し、幾重ものなだらかな層を形づくる。
それらが自分の人生を豊かなものにしてくれていることに―――そしていつか彼を失ったときには他の何物にも代えがたい糧となるであろうことに、彼女も気づき始めている。
そのためだけにでも、このかたの妻になったことは正しかったと、そう思う。
だがそれにもかかわらず、あるいはその幸福感のたしかさゆえにというべきか、崔氏は一方ではいつも、どこか不安をおぼえていた。
その不安は、懐妊が分かってからより強くなったようにも思う。
(わたしは)
唇を動かさないまま、幼さを残した横顔を見下ろす。
(わたしのほうは、このかたの生をいくらかでも豊かに彩ることができているだろうか。
このお腹の子を除いては)
思いつめても愚かしいことだとは知りながら、それでもやはり、自問せずにはいられなかった。
そしてそのことを考えるとき、彼女の念頭には常に、ただひとりの婦人の面影があった。
「子建さまは、妻がひとりでご不自由はないのですか」
曹植は賦の着想からすぐには戻ってこられないかのように、ぼんやりと下から妻の顔を見上げた。
「不自由とは」
「妾をお納れにならないのですか」
「どういう意味だ」
「ただ、気になったのです」
「俺が妾を置かぬのは正室の妬忌が激しいためだと、裏で中傷する侍女でもあったか」
「いいえ、そのような者はおりません」
「ならばどういうわけだ」
「つまり、その……夫君の健康に気を配るのは、妻の務めでございますから」
崔氏は何気なく目をそらしたが、実にわざとらしい言い方になってしまったことは 自分でもよく分かった。
曹植はと言えばしばらくぽかんとしていたが、ふいに笑い出しそうな顔になった。