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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
107/166

(十六)義兄

「おお、よく来た」


 兄弟の酒宴の場に足を踏み入れたとき、上機嫌な声が室の奥から聞こえてきた。

 崔氏は厳しい一瞥(いちべつ)を―――自分ではそのように意識したつもりの目を向けたが、曹植にはこたえた風もなく、どこまでもうれしそうである。


 彼女は早くも疲労を感じて肩を落としながら、このかたを問い詰めるのは明朝にするほかあるまい、と諦念せざるを得なかった。


 曹植は既に冠を外し襟元もくつろげているが、義兄のほうは邸の門をくぐったときと変わらず、あくまで端然とした衣冠姿を保ったまま杯を口に運んでいる。

 つくづく対照的なご兄弟でいらっしゃるわ、と崔氏は改めて不思議に思いながら、ともかくも義兄の座の前に至り、跪いた。


「義兄上さまにおかれましては、近日ますますご壮健のこと、心よりお慶び申し上げます。

 義姉上さまならびにお子さまがたにおかれましても―――」


 曹丕当人が何も答えないうちに、曹植が横から口を挟んだ。


「そんな堅苦しいことはいいのだ」


「義兄上さまにご挨拶申し上げているのです。

 子建さま、あなたはどうかお控えになって」


「そう邪険にするものではない。

 兄上とともに、そなたに言っておかねばならぬことがあって呼んだのだ」


「まあ、義兄上さまとともに……。何でございましょう」


「ああ、―――何でしたかな、兄上」


 本当に失念したらしい声で曹植は長兄に問うた。

 崔氏はひといきに力が抜けそうになる。


「ねぎらってやれ、と言ったのだ」


「そう、それです」


「ねぎらうとは」


「むろん、身重だということだ。それと、言っていないからだ」


 夫の言うことはろれつが怪しい上に、省略が多くてどうもよく分からない。

 崔氏は困惑がちに義兄のほうを見た。


「つまり、すでに大きな子どもを抱えている身で、新たに母親になる苦労をねぎらうということだ」


「大きな子どもはまだおりません、兄上」


「おまえだ」


 言いながら、曹丕は弟の耳を無造作に引っ張った。


「いたた、―――今夜はまた、辛辣ばかり仰せになるものだ。見送りには立ちませんぞ」


「かまわぬ。俺もそろそろ帰る。ここに残ってせいぜい夫人と睦み合え」


「ならば、遠慮はいたしますまい」


 曹植は珍しくふてくされたような声で兄に応じた。

 かと思うと、斜め手前にいる妻の膝の上にゆらりと頭をもたせかけ、気持ちよさそうに目を閉じてしまった。

 相手に後ずさる暇も与えないほどの、ごく自然な動作だった。


 仰向けの顔からかすかに漏れ出る吐息はじきに、表情と同じくらい心地良さげな寝息へと変わった。

 あまりといえばあまりな事態に、崔氏は(いさ)めの声さえ上げられずに凍りついている。

 人前で夫に膝を貸すなど彼女にしてみれば房事の公開にひとしい所業であり、しかもいまここに同席している相手は年長者である。


 だが当の曹丕は、眉をひそめるでもなくかといって冷やかすでもなく、ごく無感動な様子で弟夫婦を眺めている。


「あのとき言ったとおりだろう」


「え?」


「これと暮らすと苦労が絶えまい。

 それも、他の人間に嫁いでいたらまず生じ得なかったような苦労だ」


「―――はい」


「まったく、ひとに世話をかけるために生きているような男だからな。

 文才をとったら何が残るものやら」


「残るものはある、かと存じます」


 自分でもやや自信がもてないながらも、崔氏は控えめに異議を挟んだ。


「たとえば」


「―――愛すべきお人柄、でしょうか」


「その人柄のために、そなたはいままさに迷惑をこうむっておるのだろうが」


 そう言われれば返すことばもない。だが彼は崔氏の言を否定はしなかった。


 やがて義兄の杯が空になったことに気づき、崔氏はやや迷った。

 人妻が夫の兄弟の杯に手ずから注ぎかけるのも褒められた話ではないが、かといってこんな姿のまま室外から侍女を呼び込むわけにもいかない。


 崔氏はついにやむをえず、自分で酌をするため手近な酒瓶とその(ひしゃく)に近づこうと動きかけたが、やはり夫の身体が邪魔になった。

 俺は手酌でよい、と曹丕が身振りで示しかけたとき、眠っているはずの曹植は枕が勝手に動きだしたことが不満だったのか、崔氏の腹部に向かい合うように寝返りを打ちながらその腰に片腕を回して固定し、そのまま静止してしまった。


 いくら正式な夫婦といえども、これほどの密着が許されるのは閨の帳のなかだけである。

 崔氏はもはや顔も上げられず、夫を床に放り出してこの室から逃走しようかと思った。


 そのとき突然、義兄がこらえかねたように笑い出した。

 最初はのどの奥からくぐもるような音だったが、徐々に明るくなっていった。

 崔氏は急に気が抜けてしまった。


(―――義兄上さまも、声を出してお笑いになることがあるのだわ)


 夫の横顔の上にまなざしを伏せたまま、ぼんやりとそんなことを思った。

 当然といえば当然であったが、真冬の空に心宿(なかごぼし)を見出したかのような、どこかふしぎな思いに打たれた。


 やがて曹丕は笑い疲れると軽く伸びをし、立ち上がりかけた。

 しかしふと静止し、自分の(あわせ)を脱いで曹植の肩に軽く羽織らせようとした。

 崔氏は驚いて押しとどめる。


「勿体のうございます、義兄上さま。

 いま、奥から(ふすま)を持ってこさせますので」


「かまわぬ。どうせこの服も元々は子建から借りたものだ。―――たしか」


「まあ、そうでしたの」


「衣服も書物も昔から互いに貸し借りしているせいで、どこからどこまで自分のものだったのか、時々分からなくなる」


 そんなことを言いながら、曹丕は弟の寝顔をぼんやりと見下ろしていた。

 その切れ長のまなざしには、いつもとは違っていくらかの体温が込もっていた。


「夜半になっていよいよ冷えてきたからな。このなりでは薄着に過ぎよう」


「―――ええ」


「そなたもよく分かっていようが、これは昔から自律や節制といったことばとは無縁な男でな。酒が入るとなおそうなる。

 面倒だとは思うが、朝夕気を配ってやってくれ」


 曹丕はほとんど乱れてもいない自身の冠や袖口を改めて正すと、崔氏に退出の意を告げた。

 彼女も答礼しようと身動きしかけたがやはり夫の身体が邪魔になり、ふたたび義兄の苦笑をいざなった。


「かまわぬ」


 そう言って彼は扉に向かいかけたものの、途中で足を止めて振り返った。


「身重のところを呼びつけて、悪かったな」


「滅相もございません」


「そなたもどうか自愛してくれ。いや、そなたこそ自愛せよ、だな。

 そこの馬鹿を立派な父親にしてやらねばならぬ大事な身だ。

 全く、一代の難業よ」


 そう言って彼はまたかすかに笑った。

 崔氏が義兄と目を合わせたのはこのときが初めてだった。

 お優しい目元をしておられる、とふと思った。

 そして、このおふたりはたしかにご兄弟なのだと思った。


 室の扉が閉められたあとは、沁み入るような静寂だけが残った。

 曹植がようやく崔氏の腰から腕を離し、寝返りを打った。

 時おり耳元に立ち上るのは、健やかな寝息ばかりとなった。


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