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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
106/166

(十五)棠棣

「ご忠告を、謹聴いたします」


「人情の頼みがたさをか」


「いえ、妻はたぶん、俺のことをずっと好いてくれます」


 いいかげんにしろ、と曹丕は首を振って席を立ちたくなってきたが、いちおうは弟のための宴であるから、長兄らしく聞き役に回らねばという義務感に屈した。


「これからも愛想を尽かされまいとは、たいした自信ではないか」


「いや、毎日のように尽かされています。

 そもそも、婚約前にもいちど盛大に怒らせました」


 こいつは一体何をやらかしたのだ、と、曹丕は呆れるというより不思議に思った。

 婚約が成立する前といえば、曹植は丞相の御曹司かつ列侯であるのに対し、崔氏はごく寒門の、丞相に仕える属僚の親族であるにすぎない。

 そのような関係性においては、よほどのことがない限り女のほうが怒りをあらわにすることはないはずだが、曹植はそれをなさしめたらしい。


「そういえば、結婚の直後もありました。

 祝賀気分で盛り上がった友人たちとの宴席でやや羽目を外して、少しばかり飲みすぎた―――というか、自分で歩けないぐらいには泥酔して帰ってきたら、翌朝二日酔いのさなかに“そこに正座なさってください”と言われて、二刻は説教されました。


 寝床に吐いたわけでもないのに、俺自身が吐瀉物(としゃぶつ)であるかのような白い目で見られながら。


 あれの実家の族規では、人前で節度なく酔いつぶれた族人は、以後一年は宴席への参加を禁じられるらしいです。厳しすぎやしないですか」


 曹植の口ぶりは心底不可解そうであったが、妻からの本気の叱責は、どうやらそれなりに(こた)えたようであった。

 新婚の時期でさえそれなら、おそらくそれ以降も、ことあるごとに厳しい叱責をくらってきたに違いないが、その真摯さを彼なりに受け止めるところはあったのであろう。


(結婚してから、子建の素行がいくらか改まってきたようにみえるのは、そういうわけか)


 曹丕はやや腑に落ちたような気がした。

 むろんこれまでも、幼少時の師傅から近年の平原侯属官らに至るまで、曹植の野放図ぶりを諫める者はこと欠かなかったはずだが、彼らがなしえなかったことを崔氏がなしえているとしたら、曹植はそれだけ、彼女を尊重する意思があるということであった。


 意外だな、と曹丕は思った。

 惚れた弱みで曹植の“あるがまま”を丸ごと許すわけでもない崔氏の態度も意外なら、惚れられたことに乗じていっそう好き勝手をするわけでもない曹植の殊勝さも意外であった。


 ふたりとも二十前後の弱年ではあるが、一時の情熱だけではなくこれからの生涯を永くともにしていくには何が大切か、ということを、意外とよく考えているようでもあった。


 曹丕は我知らず、己の妻(しん)氏が常に示す完璧な従順さ―――かつて非難や憤激の色を浮かべたことのない、あの美しい顔を思い出した。

 あれは己に対する無関心と紙一重なのだと、いまは確かにそう思えた。

 つい、正直な思いが口をついた。


「―――それでも、情の堅さは変わらぬと。いよいよ珍重すべき配偶よな」


「そうなのです。

 ですが、それがありがたいこと、得がたいことだということをよく忘れそうになります。

 妻自身からも言われます。俺は与えられることに慣れすぎていると」


 曹丕は酔眼になりかけていた目をまた少し上げた。

 儒者の家で育ったわりには案外率直にものをいう女らしい、という軽い驚きと、季珪(きけい)の身内ならば直言も当然か、という納得と―――そして、自分が三弟におぼえる暗い思念の正体を、ふと垣間見たような気がしたのだった。


「ならばなおのこと、いたわってやれ」


 ひとつ間を置いてから、曹丕は兄らしい声音で言った。


「ましていまは、身重であろう。

 女どもの精神はたいがい男より安定を欠いているが、(はら)むとさらに、ささいなことでも不安を深めるようになる」


「承知いたしました」


 相変わらず神妙な面持ちのまま曹植は自分の膝を見ていたが、ふと顔を上げると、室外から侍女を呼び入れた。


「急がせることはないが、あれをここへ」


と短く命じるのが曹丕にも聞こえた。

 年若い侍女は一瞬とまどいの色を浮かべたものの、聞き返すこともなくまた廊下へ出て行った。


「あれとは」


「妻です」


「おまえ、何を考えている」


 自分の妻を成人している兄弟と軽々しく引き合わせるべきでないのは当たり前だが、酒席に呼びつけるなどというのは輪をかけて非常識である。

 曹丕は口調に叱責を込めつつ、だが一方では、礼教に歯向かおうなどという意図もなくこんなことを思いつき、ただ心のままにおこなおうとする弟を羨む思いがないとはいえなかった。


「兄上からも、ねぎらってやっていただけませんか」


「おまえの務めだ」


「むろんあとで俺からも聞かせますが、あれは兄上を恐れているところがあるのです」


「かまわん」


 肉親も含めて周囲の人間の多くは、自分を一歩遠巻きに眺めていることを曹丕は知っている。

 いまさら義妹のひとりに怖がられようと、別に困ることもない。


「よくはありません。兄上のことをもっと分からせてやりたいと思います。

 本当は、いつもこうして、身近な者を思いやってくださるかたなのだと」


 ばかをいえ、と曹丕は眉をしかめたが、先ほどの侍女を呼び戻すだけの気力は湧かなかった。

 酒が回りすぎていたためかもしれず、あるいは別の理由のためかもしれなかった。


 静寂が降りた。室の一隅に据えられている背の高い燭台の油盞から、火のはぜる音がかすかに聞こえてくるほかは何もない。

 ずっと前からそこに横たわっていたかのような、兄弟ふたりのあいだによく馴染む静寂だった。


 奥方さまがおいでになりました、という先触れの声につづき、婦人にしては背の高い影が扉の向こうにひっそりと現れた。

 廊下の寒気とともに、肉桂で煮込んだ(あつもの)のような温かい香気が室内に漂ってきた。

 宴席の料理の采配のために、今日の午後はずっと厨房に詰めていたのかもしれなかった。


「失礼いたします」


「おお、よく来た」


 曹丕が応ずるより先に、いつのまにかくつろぎを取り戻した声がかたわらから上がった。


 崔氏は義兄のもとへ進み出る前に、夫のほうへ少しだけ顔を向けた。

 厳しい面持ちである。淡い(まゆずみ)で描かれた蛾眉(がび)が、一体何をお考えなのです、と言わんばかりに由々しげにしかめられている。


 だがよく見れば、それは決して冷たく突き放すものではなかった。

 夫を問い詰めながらもすでに受け入れているような、憤りながらもすでに許しているような、―――おそらく崔氏本人にも不本意にちがいない、だが自然に湧き出でて枯渇を知らないものが、瞳の奥の淵に揺れている。


 夫に何度となく愛想を尽かしているというのも、それでいて情が尽きないというのも、あるいは本当のことなのかもしれなかった。


 俺もそうだな、と曹丕はふいに思い至った。

 この無防備きわまりない弟に―――周囲から手放しの情愛を、関心を、賞賛を与えられつづけるのを当然だと思っているこの弟に、折に触れて憎しみすらおぼえながら、結局のところ自分も与えつづけている。なぜなのか、とは問う意味がない。


 この弟に何かを与える見返りとして、その幼くもまじりけない謝意と歓喜―――往々にして詩文によっても発露される、天上で濾過(ろか)されたかのようなその澄み切ったよろこびに触れることで、自分も何かを与えられ、救われている。

 おそらく、それが答えだった。


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