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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
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(十四)祝宴

「たぶん、秋のはじめごろです」


 すでに何度聞かされたか分からない推測に対し、分かった、という代わりに曹丕はうなずき、空になった杯を三弟に突き出した。

 曹植の側も相当に酒が回っているはずだが、嬉々として(ひしゃく)を傾け、長兄の杯についだ。


 先ほどまではもうひとり、次兄の曹彰もすぐそこに座していたが、彼は兄弟三人の中で最も雄偉な体格を誇るにもかかわらず酒に弱く、明日の都合もあってか早々に退席し帰邸してしまっている。


 平原侯の邸であった。

 妻の懐妊を知ってからまもなく、曹植は何かしら動かずにはいられないかのように、まずは同腹の兄二人を招いて慶事を披露したのだった。


 ごくごく内輪の席だということで、楽団を招じたり歌妓や舞姫をはべらせたりすることもなく、最初から兄弟三人だけの気の置けない酒宴として始まり、そのくつろいだ空気のまま夜が更けようとしていた。


「今度こそたしかです」


「めでたいことだな」


「おれの子です」


「そうだな」


「おれの子が生まれるのです、兄上」


「おまえの子でなかったら大変だろうが」


「ほんとだ、ほんとですね、言われてみれば大変だ」


 ろれつの怪しくなってきた舌でつぶやきながら、しかし曹植の表情は深刻さとは遠かった。


「でも兄上、大丈夫です。あれは俺に黙って男をつくったりしません。

 俺に告げて男をつくったりもしません」


「あたりまえだ」


「そうなのです、俺を好いているのです」


 何のてらいもなく実に誇らしげに断定しつつ、曹植は今度は自分の杯についだ。

 我が曹家に嫁いで来た女がそうそう安易に姦通してたまるか、と曹丕はなかば呆れながらも、


「できた妻だな」


と兄らしくうなずいてやった。


「そうなのです、そう思うでしょう」


 三弟もまた、酒杯の水紋を眺めながらこくこくとうなずいている。

 その目元と口元は春の夕べのようにやわらかな幸福の色に浸され、目に映る何もかもが、静穏に満たされているかのようだった。


 やはり、没頭しているわけではないのだな、と曹丕は思った。

 それは意外でもなかった。

 三弟の口から初めて崔琰の姪のことを聞いたのは、三年前の旅游の帰途、清河の崔氏邸で彼を拾い鄴へと向かった馬車のなかだったが、そのときの口ぶりや表情もやはり、限りなく好意的で情愛のこもったものであるにせよ、(たぎ)るような恋情に駆られた男のそれではなかった。


 その直後、曹植が崔氏邸に戻った後に、曹丕には何やらよく分からない経緯が生じ、曹植は彼女を娶ることを決めたわけだが、兄に対してその決意を告げることばもまた、思いつめたような緊張とはほど遠いものだった。


 その大らかさ、とらわれなさこそが三弟という人間の根本なのだからしかたない、といえばいえないこともなかったが、その三弟とて、あまりに大きな心の震え、魂の鳴動に打たれれば生来ののびやかさを失うこともある。

 昂揚と恍惚を隠そうとして隠せず、匹夫のように虚勢を張ることもある。

 曹丕はそれを知っていた。


 彼の知る限り、弟はある女の前ではいつもそうだった。

 近年はふたりが同席すること自体が稀なので、その婦人の前に出たとき、弟がいまでも少年の日と同じように自分を見失うのかは分からない。


 分かるのはただ、曹植は清河の地で偶然めぐり逢ったむすめに対し、そのような心の震えをおぼえることはなかったであろうし、すでに日常をともにする家人となった以上は、これからもないであろうということだ。


 だからこそ曹丕も父と同様、曹植が崔琰の姪を所望した理由はいまだによく分からないでいる。


 だが、いま目の前の表情を見る限り、あのむすめは子建にとって不足のない妻なのだろう、ということは察せられた。

 不足のない、とは、家庭にあるべき調和と安定をもたらし維持する能がある、ということであり、要は正妻向きの女である、ということである。


 厳格な儒者崔琰のもとでそういう女になるべく育てられてきた崔氏は、おそらくどこの男に嫁いでも同じような満足をもたらす妻となり、少なくともそのように努めるであろう。


 よりにもよってこの三弟が、かくも変哲のない、「不足のない」妻に満足している―――そのこと自体は、ある意味不可解な現象ではあった。

 だが、いま目の前にある満ち足りた笑容の前では、それをいぶかしむことにはほとんど意味がないように思われた。


(子建が幸福でいることを、俺もそれなりに望んでいるのだな)


 曹丕はふと、目が覚めたように思った。それは悪い思いではなかった。

 そのほのかな心地よさに促されるようにして、思わず口がなめらかになった。


「大事にしてやれ」


「大事に?」


「崔氏のことだ」


「それは、もちろん」


「おまえほど(しつけ)のできていない男に惚れたというのも貴重だが、二年近く暮らしていまだ愛想を尽かしていないというなら、なおのこと貴重な女だぞ」


「ずいぶんなことを言われる」


「事実だ。人の情は移ろうようにできている」


 短く返しながら、曹丕は己の妻甄氏の面影を思った。

 床に伏してやつれがちないまでさえ、その瓏たけた美貌には少しも翳りなど見えないが、十年前のあの日、(ぎょう)陥落の戦火と粉塵のなかで彼女をさらい出したときの形容を超えた昂揚、ほとんど感動といってもいいほどの胸の高ぶりは、どこでどう消えうせたのかとふと考えた。


 むろん、そういった激しすぎる情動は―――三弟のような男にあっては可能かもしれないが―――常人にあっては持続するものではない。

 己の胸中がほどなく沈静したこと自体は当然であったが、しかしそれでも、甄氏とともに暮らすようになってから徐々に、その高ぶりを日常にふさわしい纏綿(てんめん)たる情愛へと昇華させることは可能なはずであった。


 だが結局、彼らふたりのあいだには情熱の余燼(よじん)以上の何かが生まれることのないまま、十年後のいまに至っている。

 少なくとも曹丕自身には、そう思える。


 兄上、と呼ぶ声に目を上げると、曹植もまた杯の水面から目を上げていた。

 いつのまにか、口元が神妙にひきしめられている。


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