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陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
兄弟
104/166

(十三)輿望

 尚書台官僚を中心とする魏国首脳部の任命の儀は、それから数日後に滞りなく執り行われた。


 もとより曹一族の居住区であった(ぎょう)の北部区画には、約半年前の魏国創始以来、王の格式に準じる魏公の宮殿が着々と建設されているが、それに向かい合う鄴の中核地区には、従来の冀州府の諸部署に加えて、魏国国政に与る官庁街が形成されることになった。


 末席に至るまでひとりずつ姓名を呼び上げ、印綬を授ける儀式が終わり、任命の儀はついに散会となった。

 玉座ならぬ魏公の座に就きその進行を見守っていた曹操は、百官に見送られるなか最初にその場から退出したが、専用の廊下をいくらか進んだところで、思い直したように踵を返した。


 天子の朝議の間をも凌がんばかりに広壮な堂の入り口近くにはやはり、臣下たちのうち少なからぬ者が残って雑談をしていた。

 拝命したばかりの歓喜を隠しきれない青年官僚もいれば、期待にたがう辞令を受け取ったためか、やや落胆した面持ちで同僚に話しかける壮年の男もいる。


 曹操が戻ってくると、さすがにみな声を落としかけたが、彼は意に介することなく歩を進め、ひとりの臣下の長身を探し出した。

 尚書台の第三位、尚書の官に任命されたばかりの崔琰(さいえん)だった。

 その身辺には、彼とともに尚書を拝した毛玠(もうかい)らが集っている。


「―――主公」


「公事とは無関係だ」


 主君の到来に気がつき重々しく拝礼しようとする彼らを手振りで制し、曹操は輪の中心にいる崔琰に声をかけた。


季珪(きけい)、子建から使いがあったか」


「平原侯より、ですか」


「そなたの姪が身籠ったそうだ。今度はたしかであろうと」


「それは―――」


 自らの足で吉報を伝えてくれた主君に崔琰が謝意を表明するより先に、周囲の者たちがどっと沸き立った。


 むろん、口々の祝辞はまず曹操に捧げられ、それから崔琰に向けられた。

 順序をまちがえるような者はひとりもいなかった。


 だが、同僚である崔琰に慶賀の意を伝える彼らのようすに、曹操はふとわだかまるものをおぼえた。

 かといって、何か含むところが感じられるわけではない。

 それどころかその場の者はみな、ほとんど我が身に起こった出来事のように、崔琰とその姪の僥倖(ぎょうこう)を喜んでいる。


 慶事の報せは少しずつ堂内に広まり、


「季珪どのの」


「平原侯夫人が」


「かの公子のお子なれば、丞相の御覚えもさぞかし」


といったささやきが交わされはじめたのが耳に入ってきた。

 その遠慮がちな口ぶりや遠目に崔琰を眺める表情にしても、羨望の色はあっても妬みや悪意のこもったものはほとんどないようだった。


 それも当然といえば当然のことではあった。

 今日この場にいる者の多くは、もともと丞相府の属僚として登用されていた者、もしくはそれを経る前後に地方へ赴任し郡太守の属僚などを歴任してきた者である。

 つまりは、府の西曹と東曹を相次いで務めた崔琰が、長年にわたり同僚の毛玠とともに抜擢してきた者たちばかりということであった。

 彼らはもとより、公正な人事を貫徹する崔琰らに恩義を感じているのだから、その喜びをともにこそすれ、妬む者は少ないだろう。

 

 だが、あまりといえばあまりに衆望が近すぎる。

 曹操のなかで、そんな印象がふと生まれた。


「魏国の誕生と機をひとしくしてご懐妊なされるとは、なおのことめでたいものですな」


 崔琰の新しい上官にあたる荀攸(じゅんゆう)涼茂(りょうぼう)もいつのまにかこちらの輪に近づき、穏やかな祝辞を残して去っていった。

 このふたりは経歴上は崔琰とさしたる接点はないはずだが、その物腰からすれば、彼の人品と従来の実績に一定の敬意を払っていることはまちがいないようだった。


 口々の祝福に取り巻かれながら、曹操はふたたび、深く返礼しようとする崔琰の長身を見るともなく仰ぎ見た。

 稀に見る優美さと威厳を同時にそなえた容姿に、どこまでも信念を貫こうとする剛直さ、そして公正で私心なき言行。


(たしかに、衆望を集めるに足る男だ)


 曹操は改めてそう思い、そしてまた、誰かに似ている、と思い至った。

 故人となったその男―――荀彧(じゅんいく)もやはり、世の士人たちの期待を一身に担うとともに、曹操が無比の信頼を寄せる重臣であり、かつまた曹家の姻戚であった。

 そして、魏公就任に自ら賛意を示すことは、ついになかった。


 だが荀彧は魏公の地位を望んだ曹操にはっきりと疑義を呈したのに対し、崔琰のほうは尚書の任命を受けた以上、魏という国の成立を否認する意思はない、と見なすべきである。


 しかし、と曹操には依然割り切れぬものがあった。

 崔琰のこれまでの言動を思い起こす限り、魏という生まれたばかりの国に対する彼の忠節が、手放しのものと言えるかどうかは疑わしい、と言わざるをえなかった。


(そもそもこの男は、勧進(かんじん)には名を連ねなかった)


 魏公冊立の議が朝廷から発せられた当初、曹操は当然ながら、一種の儀式として何度も辞退を重ねた。

 それに対し、是が非でも魏公の位に就くよう曹操に請願する運動、すなわち勧進の動きが丞相府内外で広まりを見せ、最終的には丞相府上層から末端に至るまで、おびただしい数の官僚たちが勧進の文書に名を連ねた。


 当時、崔琰とほぼ同格で親友でもある毛玠は勧進に加わっていた以上、崔琰だけがその盛大な政治運動を知らずにいた、ということはまさかあるまい。

 つまり、崔琰は勧進に加わらないことを意識的に(・・・・)選んだということだ。


 曹操とて、これまでそのことに思い至らなかったわけではない。

 だが、これまでは猜疑心よりも、いかなるときでも至誠にして真率な崔琰という幕僚への信頼が勝っていた。

 それが、いまこのとき不意に、(はかり)が逆のほうへとわずかに傾いた。

 この男は信頼に足るべきか、と思い始めたのであった。


 そして、その疑いの上にふと、よぎっていくものがあった。

 先日の書房で、息子たちと交わしたあの会話―――曹植は正室たる崔夫人を軽んじてはいないらしい、それどころか、父たる己すら当初想定していなかったほど真摯にかつ親身に扱っているらしい、という印象がよみがえったのである。


 崔夫人のことを軽んじていないならば、その父親にひとしい崔琰のことはなおさら、個人的な相性はともかくとして、重んじるほかないであろう。


(―――子建の子は、季珪と同じ血をも引くことになるわけか)


 曹操はいつのまにか、胸中に冷たいものが射しこむのを感じていた。

 本当はこの機会に、崔琰の姪が来年には臨葘(りんし)侯夫人となることも伝えておくつもりだった。


 季珪をよろこばせてやろう、という思いは確かに当初、自然にきざしていたのである。

 だが、ここにこうして立ちつづけるほどに、その穏やかな善意は冬の淡い斜光のなかに立ち消えていくかのようだった。

 群臣が新たな輪を重ねるなか、曹操はそこから離れた。











諸般の事情により、3の倍数の日に更新ということができたりできなくなったりなりそうですが、気長にお付き合いいただけましたら幸いです。

崔琰の官歴についてはこちらでまとめています。


◆覚え書き◆ 漢魏晋期の清河崔氏②

https://ncode.syosetu.com/n4885hv/70/


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