(十二)諮問
冒頭に記された荀攸という姓名、そして尚書令という官名は、明らかに目に入ったはずであった。
ふだんの曹植ならば、「なんだもともと俺の話ではなかったのだ」と子どものように不服そうな顔をするところであったが、今日はそうではなかった。
神妙な面持ちになったわけではないが、問いを発するまでに少しだけ間を置いた。
「―――魏国の人事を、論じておられたのですか」
「そうだ」
お前には関係のないことだ、と曹丕が短く答える前に、曹操は肯定を返した。
すでに笑容は消え、目をそらすことを許さぬまなざしで三男の顔を見据えていた。
「せっかくだ。おまえにも意見を訊いてみるか」
「父上、子建は」
「いえ、俺は」
兄弟の声がほぼ重なり、共鳴したように途中で止んだ。
「子桓」
「はい」
「いまのは子建に言ったのだ」
「―――申し訳ございません」
「その案を見せてやれ」
「はい」
兄から渡された簡牘をためらいがちに広げながら、曹植はさほど長くない書面に目を通した。
「どうだ」
「―――父上が兄上に諮問なされてお決めになられたのであれば、弱輩より申し上げることはございません」
「諮問、というわけではない。すべてはわしの独断だ。
だが、聴くべき意見があれば改めぬでもない」
長男に対しては明言しなかったことを、曹操はいま、はっきりと口にした。
曹丕は一瞬唇を噛み、あとは平静な顔で弟の答えを待った。
「異論はございません。
いずれも功績・声望ともに不足なく、朝野の支持を得られる人選かと」
「そうか」
「殊に、荀中軍師を尚書令にというのは、至当の選択かと存じます。
いずれは魏国に丞相を置かれるとしたら、やはりかの御仁を初代の相として立てられるべきかと」
「文若に報いるためにもか」
中軍師荀攸の族父にして昨年末に逝去したばかりの漢の尚書令荀彧を、曹操は字で呼んだ。
曹植は一瞬静止し、それから首を振った。
「亡き荀令の功績と徳行はむろん比類なきものです。
ですが、中軍師ご自身の献じられてきた数々の軍略、天下の形勢を見据えた大計もまた、漢の輔弼という父上のご大業の助けとなること計り知れぬものであったかと存じます。
殊に中軍師は、父上がより堅牢な漢の藩屏になられるべく、魏公就任を率先して推されたと伺っております」
「意外だな」
曹操はぽつりと言った。
「おまえは、年端もゆかぬ昔から、文若を慕うことひとかたならぬものがあったように思うが」
「―――はい」
「あれのために、最近は誄も書き下ろしたようだな」
「さようです」
「人づてに入手して目を通してみたが、なかなかよかった。
『冰の清きが如く、玉の潔きが如し』とは、簡潔でいながら実に文若に捧げるにふさわしい形容だ。
故人を悼む文はあのようにあるべきだな」
「恐縮に存じ上げます」
「が、故人はいかにせよ故人だ」
曹操は平坦に言った。
謝辞を述べかけたままの姿勢で、曹植は静止した。
「去ることを望んだ者は、何も為しえない己に甘んじたということだ。
生を選んだ者、己の果たすべき任を知りそのために留まった者たちこそ、報われる価値がある。
ゆえに公達(荀攸)らは魏国の枢要となる。それだけだ」
兄弟は何も言わなかった。
曹操も問いかけることはなく、ふと疲れをおぼえたように瞑目した。
「子建」
「はい」
「下がってよい」
まぶたを閉じたままの父に、曹植は深く一礼した。
「ふしぎなものだな」
扉の向こうに消えた背中から目を離し、曹丕は父のほうを振り返った。
まだ目をつぶっていた。
「ついこのあいだまで冠礼さえ早いと思っていたあれが、ついに子を生すという」
その口調には、いつのまにか肉親の温かみが戻ってきていた。
同時に曹丕にとっては、自分がいかに他人かを思い知らされる、そんな響きを帯びてもいた。
「あれこそまだ、ほんの子どものようなものではないか」
「ええ、父上」
緩み始めた父の口元に同調するように、曹丕も淡く苦笑を浮かべた。
口角を上げながらふと、俺はいつのころからか、挙措もことばも表情も、父上の目に過不足なく映ることだけを考えるようになったな、と思う。
それを矩としていることを、いまではほとんど意識すらしなくなった。
「おまえの正室はどうだ。最近は元気にしているか」
思いがけない父親の問いかけに、曹丕はやや間を置いた。
「いえ、―――はい、床に伏しがちなのは変わらずですが、ここ二旬ほどは気候のせいもあってか、朝夕の気分はすぐれることが多いようです」
「そういうときを見計らって、少しは外に連れ出してやれ。
急な遠出は難しかろうから、銅雀園でも、玄武池でもいい。
非日常の景物に触れれば、心が慰められて身体にもよかろう」
「お心遣い、痛み入ります」
「狩猟ばかりが世の楽しみではないぞ」
曹丕は一瞬父を見やり、黙って目を伏せた。
ご承知なのだな、と思う。
この父にだけは、中庸を忘れ何かに耽溺するような姿を見せたり伝聞させるわけにはいかない、と努めてきたつもりだったが、その眼光から逃れることなどできないようだった。
丞相の長子にして副丞相という、いまの自分の立場に切実な不安があるわけではない。
だがどういうわけか、日常のうちにつもりゆく鬱屈の質が、近年は変わってきたように感じる。
十代のころはおぼえたての酒や女色でたいがいの憂さを晴らせたものだが、いまではそれらにさほど激しい渇望をおぼえることもない代わりに、漠然とした欠落感がいつも胸の底に根を張っている。
わずかの間でもその重苦しさを忘れ去るには、早朝の狩り場のあの張り詰めた空気、馬上で風を切り裂くあの爽快さにまさるものはなく、曹丕にとって狩猟は、いまや飲食や詩作ほどに欠くべからざる営みになりつつあった。
「申し訳ございません」
「責めているわけではない。叡も案じているのだ」
「―――叡が」
曹叡は曹丕と甄氏との間に生まれた長男である。
絶世の美貌を謳われる母親と同じく、どこか人間離れして見えるほど美しく聡明なこの初孫を曹操は溺愛しており、どこへ行くにも手元におかずにはいなかった。
鄴陥落の翌年に生まれた曹叡は今年九才だが、曹操はあるいは己の長男である曹丕よりも長い時間を、孫とともに過ごしているかもしれなかった。
「子が母の身を案じるのは当然だが、父母の間に隔てがなくなることを願うのもまた、当然だろう」
「心いたします」
曹丕は恭しくこうべを垂れたが、内心は無感動に受け流した。
十年前に妻として迎えた女と胸奥から打ち解けようと試みるには、いまや時間が経ちすぎてしまっていた。
「あるいは」
長男に手振りで退出の許可を与えた後で、曹操は彼の背中に向かってつぶやいた。
「叡は異腹の弟妹らにも愛情深い兄だが、やはり母を同じくする者たちもほしいのだろう」
「甄の具合が回復すれば、いずれは、また」
「甄氏が初めて懐妊したとき―――叡を身籠ったときのことを、おぼえているか」
曹丕は足を止めた。先ほどにも増して意外な問いだった。
「ええ。初産のわりには、さほどの困難もなく済んだかと記憶しています」
「そうではない。おまえはいまの子建よりも若かったな」
「はい」
「おまえが喜んでいたという記憶がない」
「むろん、喜びました。父上母上の御許にも、すぐにご報告に参上したかと」
「そういうことではない。
おまえは、もっと自分をあらわにするがいい。少しばかり抑えすぎだ」
「―――はい」
三弟がおこなったよりもさらに丁重な礼を捧げて、曹丕は退室した。
自分をあらわにしたときに父は自分をどう扱うのか、それを仮定して、すぐにやめた。