表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
陳思王軼事  作者: 仲秋しゃお
1/166

(一)偕偕たる士子

  彼の北山に(のぼ)り (われ) 其の杞を采る

  偕偕(かいかい)たる士子 朝夕 事に從う

  王事 (もろ)きこと()し 我が父母を憂えしむ






季珪(きけい)兄さん、かまわんですか」


徳儒(とくじゅ)か。入りなさい」


「失礼します、―――やあ、おまえもいっしょか」


 戸を開ける音につづいて落ちてきた声に童女は目を上げ、小さな顔をほころばせた。

 迷わず立ち上がり、そのまま駆け寄るかに見えたが、「伯女(はくじょ)」というおごそかな呼びかけが彼女の足を留めた。

 元から室内にいた男―――季珪と呼ばれた男が発した声だった。


 年の頃はすでに四十ほどで、兄という称のとおり来訪者よりもいくらか年配だが、座っていても明らかなほどに堂々たる長身の主である。

 正座した膝を覆うほど豊かに蓄えられたあごひげにも増して、ゆったりと整ったその眉目は稀に見る優美さを具えている。


 この面立ちとともにあっては、農夫とみまがうほどに質素な麻の身なりすら、心神の清雅さのあらわれとして茅屋(ぼうおく)に映えざるを得ないほどだった。

 さらにそうした天性の造形の上に、歳月をかけて自ら培ってきたにちがいない自然な気品と威厳とを、この壮年の男は挙措や声の隅々にまでたたえていた。


 童女ははっと背筋を正すと来訪者に向き直り、ゆっくりとぎこちなく、その幼齢には不釣り合いなまでに仰々しい礼を捧げた。

 室に入ってきた男は苦笑を噛み殺しながら努めて真摯な面持ちで礼を受け、今度は自分から室内の男へ礼を捧げた。


 勧められて一隅に座ると、孟冬の午後の穏やかな日差しが(れんじ)の窓越しに降り注ぎ、その相貌が先ほどよりははっきりと浮かび上がった。


 兄と呼びかけた相手とは対照的に、この来訪者のほうは、立っても座っても隠しようがないほど小づくりな体格であり、肉付きも相応に貧弱である。

 目鼻立ちは難があるというよりは、小さく地味に収まりすぎており、人の印象に残る要素がほとんどない。


 壮年に達してなお陰りが見えないほどの美男と同室しているという不利を差し引いても、大抵の人間の目には「心もとなくてうちのむすめはやれそうにない」と映るに違いない男だった。

 幸いなことに彼もまた人並みに妻帯できたが、血族・姻族問わず身内の大部分からは未だに軽んじられているありさまである。


 が、その表情やまなざしに卑屈さや虚勢じみたものは微塵もなく、むしろ、己を見下げる他者と見下げられる己とを離れたところから常に俯瞰(ふかん)しているような、奇妙に飄々(ひょうひょう)としてこだわりのない趣きがあった。

 童女が彼の顔を見て喜んだ理由も、案外そんなところにあるのかもしれなかった。


「そなたのところは、(かきね)の補修は済んだのか」


 童女に示すために広げかけていたらしい木簡(もっかん)を巻きなおしながら、季珪(きけい)徳儒(とくじゅ)に尋ねた。


「ええ、おおよそは。だいぶ固まりましたよ。あとは戸の泥塗りです」


「段取りが早いな」


「去年の慌ただしい塗りではどうにも冷え込んだものでね、今年こそは時間をかけて厚く塗り重ねんことにはと思って。

 そうそう、墻の土を固めるための木型を新しくこしらえたもんで、古いほうをばらしたんです。

 薪にしてもよかったんだが、平たい板だから伯女の手習い用にいいかと思ったんでね。

 うちはまだ他に字を学ぶ子どもらはおりませんから」


 そう言って彼が背から下ろした籠のなかには、女児の手でつかむのにちょうどよいくらいの幅に切られた細長い木板がいっぱいに詰め込まれていた。

 まだいくらか土のにおいを残してはいるが、表面はきれいに拭き取られてあり、字を書くのにおよそ支障はないなめらかさを見せていた。


 都洛陽(らくよう)にて尚方令(しょうほうれい)の職にあった蔡倫(さいりん)という名の宦官(かんがん)が改良に改良を重ねた紙を皇帝に献上してからいまだ百年を経ない現在、文具としての紙は依然絹に次ぐ高級品であり、この家の蔵書も大半が木簡か竹簡に書かれたものである。

 まして、字を識りそめてまもない童幼の練習用にはそのあたりの木切れか古布でも使うのが当然だった。


 徳儒が「うち」と呼んだのは彼と妻子から成る家庭のことばかりではなく、同じ集落内に寄り添い合って暮らす一族全体のことである。

 伯女と呼ばれたむすめはその称のとおり同世代のうちでは最も年長なので、字を学ぶのも従兄弟たちに先んじているのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ