08.茶竹山
翌朝……、
俺は早朝の住宅街を自転車で走っていた。
いつもなら土曜はゆっくり昼頃まで寝てるのだが、今日は茶竹山へ行かねばならない。
背中のリュックには早起きして作った弁当と水筒が入っている。
玉子焼きとおにぎり、そして冷凍唐揚げをギュウギュウに詰め込んだ弁当だ。スニーカーは歩きなれたものを選んだし、山登りの準備はばっちりだ。
セスはウィンドブレーカーのポケットに収まり、琥珀は自転車の後ろの荷台に乗っている。
二人乗りだが……琥珀は誰にも見えないし、そもそも人間じゃない。ノーカン、だよな。
住宅街を抜けてしばらく行くと、田畑が拡がり、山が近づいて来る。
のどかな風景、自転車のペダルは軽く、風が髪を揺らす。
これは完全に遠足気分だな。
琥珀が荷台で立ち上がった。どこにも掴まることなく、ガタガタ揺れる自転車の上で姿勢を崩すこともない。すごいバランス感覚だ。
行けるところまで自転車で行こうと思っていたが、山に入る前の緩やかな坂道で俺は自転車を降りた。ハイキングで来た人のための駐車場&駐輪場があったのだ。
自転車を停め、俺は琥珀と並んで山道を歩き出す。
木漏れ日は優しく、木々の香りや鳥のさえずりを楽しみながら進んでいく……行楽日和だなぁ。
しかし遠足気分の俺とは違い、琥珀はずっときょろきょろしている。
「琥珀、白の気配を探せるか?」
「……今は何も感じない」
「そっか……」
小学生が遠足で来るような山だ。ゆっくり歩いても山頂まで二時間もかからない。
木々が生い茂る暗い辺りや、藪なんかを気にしつつ登山道を上がっていく。
ふいに陽が陰った気がした。
見上げると綺麗な青空と輝く太陽がまぶしい。
それなのに、何故かやけに暗い……。木々が密集した辺りの影が急に濃くなった気がする。
「こっちだ」
何かに気づいたように琥珀が登山道から逸れ、茂みの奥へと進んでゆく。
「えぇっ!? そ、そっち!?」
何度も遠足で来ているとはいえ、さすがに登山道から逸れたことなんかない。
躊躇しているうちに、琥珀はどんどん奥へと分け入っていく。
見失ってしまいそうだ。
俺は仕方なく琥珀を追いかけた。
けもの道ですらない、草木の生い茂った山の中を進む。
「あれ? なんの音だろう……」
鳥のさえずりじゃない、葉擦れの音でもない……不思議な、何かで木を叩くような、コココ……カポカポ……ココココ……優しく柔らかい木琴のような音がいくつも響いてくる。
それはまるで歌うみたいに、連なり、呼び合い、追いかけっこするように続いてゆく。
「蒼太は木霊も知らないのか?」
琥珀の言葉に俺は目を瞬かせた。
木霊……ってたしか、木の精霊みたいなやつだよな。
俺は小学生の頃に読んだ『全日本妖怪大図鑑』の知識を引っ張り出す。たしか、精霊のページに載ってたような気がするぞ。
目を凝らすと、あちこちにぼんやりと光る丸いものが見える。それは音と連動するように明滅しながら木の枝や幹の周りに漂っていた。
「あれが……木霊、なのか」
なんとも幻想的な光景だ。
俺は思わず見惚れてしまっていた……それが、良くなかった。
突然、ぐるんと視界が回る。
「うわぁっ!?」
足元がおろそかになっていた俺は急斜面に気づかず、足を踏み出してしまったのだ。バランスを崩し、そのまま急斜面をズザザザザ―ッと滑り落ちていく。
途中、小枝や石に体中あちこちぶつけながらも、何とか頭を庇い、俺はギュッと目をつぶった。
◆◇◆◇◆◇◆
「……う゛……、いたた……っ、……」
痛みに顔をしかめつつ、体のあちこちを触ってみる。
大きな怪我はなさそうだ……良かった。
「いったい何の遊びだ?」
呆れたような声に視線を上げると、琥珀が俺を見下ろしている。
「遊びじゃない……普通に落っこちたんだよ」
むっとして言い返したが、琥珀は俺を気遣う様子もない。探るように周囲に視線を動かし、狐耳がせわしなく動いている。
何かの気配を感じているのだろうか……。
「琥珀、白は見つかりそうか?」
「分からない……でも、何かいる」
俺はゆっくりと立ち上がり、服についている土や葉っぱをはたき落とした。
ポケットの中でセスがもぞもぞしている。
「セス、大丈夫か?」
『問題ない』
よし、全員無事だな。
俺は改めて斜面を見上げた。
うーん……ここから上がるのは無理っぽいぞ。
それこそ適当に歩いても下山できそうな山だ。危機感はないが、やけに暗いのが気になる。
まだ午前中だし今日は晴れだ。それなのに、木漏れ日が地面まで届いていないような……空間そのものの明度が低いような、不思議な感覚。
その時、弾かれたように琥珀が動いた。
「……――っ! あっちだ!」
急に走り出す琥珀を、俺は慌てて追いかける。
「おい、琥珀っ! 置いてくなよっ!」
ほんの数十メートル進んだところで、俺は何かに足を引っかけて盛大にすっ転んだ。
「うわぁっ!」
またしても俺の情けない悲鳴が山に響く。
「うぅ……いたた、……っ……」
膝を擦りむいたか……顔をしかめつつ起き上がると、ウィンドブレーカーの左袖が裂けているのに気づいた。
「うわ、マジかよっ……」
小枝にでも引っかけたのか……これ、気に入ってたのに……。
『蒼太、腕……痛くないのか?』
「……――は?」
セスの問いの意味が分からず自分の腕を見た瞬間、俺は息をのんだ。
「な、なんだ……これっ!?」
裂けていたのはウィンドブレーカーだけじゃなかった。俺の左腕にも大きな切り傷が出来てるじゃないか! でも、あれ? なんだろう……まったく痛くないぞ???
転んだ時に擦りむいた膝の方がずっと痛い。
それに、こんなに大きな傷なのに血も出ていない。
「どうなってんだ?」
恐る恐る指先でそっと傷口に触れてみた。
……確かに皮膚が裂けている。まるで鋭利な刃物にでも切られたかのような、傷。
「なんだ……白じゃないのか」
がっかりしたような琥珀の声……、俺は顔を上げた。
いつの間にか、俺のすぐ横に琥珀が立っている。
「こは――……っ!?」
問いかけようとしたその時、ザァア――――ッ! と一陣の風に俺の言葉はかき消された。
周囲の木々が揺れ、俺の服も髪も激しくはためく。
「えっ?」
瞬間、白い何かが猛スピードで視界を横切った。
俺の動体視力では、その姿を捉えることはできない。
『蒼太っ!』
セスの声が頭に響く。と同時に、俺は琥珀に突き飛ばされた。
のけぞる俺の目の前を何かがすごいスピードで横切る。
俺の前髪がスパッと切れて離れていくのがスローモーションのように見えた。
なん、だ……これ……っ!?
ドサッと尻もちをつき、呆然と顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは――……、
「琥珀? なに、持って……?」
琥珀はそれぞれの手に白い動物を一匹ずつ掴んでいた。まるでイタチのようなソレは、琥珀の手から逃れようともがいている。
そして地面にもう一匹、白い動物が目を回して転がっている。いつの間にポケットから抜け出したのか、セスがその上にふわりと乗っていた。
「な、なんだ……それっ!?」
俺の声は情けなくも震えている。
琥珀は呆れたように俺を見た。
「お前、鎌鼬も知らないのか?」
「かまいたち……?」
いや、知ってる。めちゃくちゃ有名妖怪だ。確か『全日本妖怪大図鑑』のかなり前の方のページに載ってたぞ。
俺は呆然と三匹を見た。妖怪大図鑑のイラストよりずっと可愛い。クリクリの黒い瞳は愛嬌たっぷりで、白く短い毛並みは触り心地良さそうだ。しかしその小さな腕には、確かに鎌の形をした刃のようなものが光っている。
俺はこんな可愛い奴らに襲われたってのかっ!?
信じられない思いで、俺は愛らしくも凶暴な三匹を見比べた。