07.花子さん
「こっちだ」
重力を感じさせない身のこなしで、琥珀はふわりひらりと階段を上がってゆく。
俺も続く。
校舎の三階に着くと、琥珀はゆっくりと廊下を歩き出した。
窓から射し込む夕焼けで廊下はオレンジに染まっている。
ちょっと不思議な空間に迷い込んでしまったような感覚……なんだか酔いそうだ。
しかし恐怖は感じない。
八尺様が「花子ちゃん」なんて呼んでたからか、怖いものだと思えない。
廊下のちょうど真ん中にあるトイレの前で琥珀は足を止めた。
俺は中を覗き込む。
……暗い。
そして不気味だ。
何の気配もないぞ、本当に花子さんが潜んでいるのだろうか……。
俺は遠慮がちにトイレへ足を踏み入れた。
手前から三番目の扉が閉まっている。
ここだ。
えーっと、なんだっけ……花子さんを呼び出す方法みたいなのがあったような……。
「琥珀、どうすればいいんだっけ?」
「適当に……」
「…………」
小学生の頃に読んだ『学校七不思議』の知識を引っ張り出す。
たしか……ドアを三回ノックしてから「花子さーん」と呼びかけるんだったか……いや、待て! 「遊びましょ」だったような気も……。
そうそう、色々思い出してきたぞ!
たしか『学校七不思議』によると、花子さんがいるのは三番目のトイレ。他にも……一番目には花子さんの父、二番目には母、四番目は妹、五番目に弟、それから……男子トイレの二番目に祖父がいて、そいつらを呼ぶと「うちの花子に何か用か?」と聞かれるんだったな……。
後から後から出て来る「花子さん情報」を思い出していると、琥珀がいきなりトイレのドアに手をかけた。
力ずくで開こうと乱暴にドアをガチャガチャ揺する。
「ちょ、お前……っ、……そんないきなりっ! トイレ中の女子を呼び出すんだ、ちゃんとマナーとかデリカシーってやつをだな……」
俺の制止なんて気にも留めず、開かない扉に苛立った琥珀はとうとうガンッ! と扉を蹴り飛ばした。
鍵が弾け飛んだのか、扉が勢いよく開く。
「ひっ!?」
怯えた女の子の悲鳴がトイレに響いた。
開かれたトイレの中には――……赤い吊りスカートに白い襟付きのシャツ、そしておかっぱ頭……絵に描いたような「花子さん」がそこにいた。
いや、待て。
決めつけは良くない。まずは本人確認だ!
「あ、あの……えーっと、花子さんだよね?」
「な、な、なに? 何なのっ?」
花子さんは明らかに怯えている。琥珀が乱暴に扉を蹴破ったりするからだ。
小さな女の子を苛めてるような気分……心が痛む。
横目で睨む俺の視線なんて気にすることなく、琥珀は真っ直ぐに花子さんを見据えている。
「おい、白を見たというのは本当か?」
偉そうで威圧的、単刀直入な琥珀の問い。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
花子さんは何故かひたすら謝りまくる。
何を問われているのかも分かってなさそうだ。
「ちゃんと質問に答えろ!」
「ひっ!!」
琥珀の一喝で、花子さんは頭を庇うように抱えてしゃがみ込んだ。
俺は思わず琥珀の頭にゲンコツを落とす。
ゴンッ! トイレに鈍い音が響いた。
「いっ!! な、何をするっ!」
「女の子を怯えさせてどーすんだ、バカ」
俺はしゃがんで花子さんに目線の高さを合わせると、最大限に優しく声をかけた。
「こいつ乱暴でごめんな? ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど……いいかな?」
俺の隣で琥珀が不満気にふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向く。
花子さんは恐る恐る俺の方を見た。
俺は愛想よくニカッと笑ってみせる。
「なに?」
花子さんの小さな声は震えているが、なんとか話をきいてくれそうだ。
「白い獣の妖を見たって、八尺様から聞いたんだけど……本当?」
俺の問いに花子さんは軽く目を瞬かせる。
少し考えるように視線を彷徨わせてから、思い出したように「あ……」と小さく声を上げた。
「先週、三年生の校外学習があったの……茶竹山への遠足。私、一緒に遊びに行って……そこで白い獣の妖を見たわ」
「獣って、狐かどうかは分からない?」
「ごめんなさい、見えたのは一瞬だったから……」
花子さんは申し訳なさそうに俯いてしまった。
「あぁ、いやいや! 情報ありがとう、助かるよ!」
礼を言うと花子さんは再び顔を上げ、改めて俺を見た。
恥ずかしそうに小さく微笑んで頷く。……すごく素直でいい子だな。
花子さんに捕まったら、「殺される」とか「連れて行かれる」なんて言ってたのはどこのどいつだ?
俺は昨日コンビニで買ったクリーミーメロンソーダチョコを一つポケットから取り出し、花子さんに差し出した。
「こういうの好きか分からないけど……」
花子さんは戸惑うように俺とチョコを見比べ、そっと手に取った。
「ありがとう」
すぐには食べず、スカートのポケットに大事そうにしまう。
なんだろう、やたらと可愛いぞ……。
生意気な茜とは大違いだ。
「茶竹山か……」
琥珀が小さく呟いた。
茶竹山はこの辺りの小学校では定番の遠足スポットだ。
俺も小学生の頃、何度も遠足で行った。
琥珀はくるりと向きを変えてさっさとトイレを出て行ってしまう。
俺は慌てて追いかける。トイレの出口で一瞬振り返ると、花子さんが可愛く微笑みながら小さな手を振っていた。俺も振り返し、廊下を歩いて行く琥珀を引きとめる。
「待てよ、琥珀! さっそく今から行くつもりじゃないだろな?」
「今から行く」
足を止めることなく琥珀が答える。
俺は隣を歩きながらため息を吐いた。
「もうすぐ暗くなるぞ。夜に山に入って探すなんて無茶だ……明日は土曜だから学校ないし、朝から連れてってやるよ」
遭難するような大層な山じゃないが、それでも夜に行くような場所じゃない。
琥珀の頬っぺたには思いっきり「不満」と書かれている。
先のばし先のばしになってしまってるのは確かだが……。
ふいにポケットの中でセスがもぞもぞ蠢いた。
「セス? 起きたのか?」
『ここはどこだ?』
「小学校だ。花子さんに話を聞くって言ってただろ」
『あぁ、そうだったな……』
話しながら廊下を歩いていると、教室の中に小さな人影が見えた気がした。
なんとなく気になって足を止める。
廊下の窓から覗き込んだ。
薄暗い教室に明かりも点けず、一人ポツンと席に座っている。
えーっと……、アレはどう見ても普通の人間じゃない。
黒くぼんやりと輪郭がぼやけていて、男女の区別もつかない。
ぞわわわわ~っと鳥肌が立つ。
俺は直感した。怖いやつだ!!
み、みみみ見なかったふりをしてここから離れるんだ!
しかし俺の体は動かない。
黒い影を凝視したまま完全に固まってしまった。
少し前を進んでいた琥珀が異常に気付いて引き返してくる。
「蒼太、どうした?」
「あ、……いや……、……」
黒い影から視線を外すことも出来ないまま、喉はカラカラでまともに説明もできない。
俺の視線の先を見た琥珀は、納得したように小さく「あぁ……」と声を漏らした。
セスがポケットから出て、ふわりと浮かび上がる。
『なんだ、ただの低級霊じゃないか……』
白い電光を帯びたセスは、もう完全に臨戦態勢だ。
駅で霊から守ってくれた時にも思ったが、セスはけっこう強い。
セスの飼い主になったせいで怖い霊は見えてしまうが、その度にセスがやっつけてくれるなら大丈夫……かもしれない。
その時、黒い影は何かを取り出した。
黒い……本か?
机に座って本を拡げる黒い影は、まるで授業を受けている姿を思い浮かばせた。
一瞬、セスの周りの空間が歪む。
駅で中年男性を薙ぎ払ったアレをもう一度やろうとしてるのか。
「ちょ、――……ちょっと待て!」
俺はセスを掴んでやめさせる。
『なんだ? どうした?』
「あの霊、別に襲いかかって来たわけじゃないだろ? 授業中みたいだし、そっとしとこう」
『………………』
自分に害があるわけでもないのに見つけ次第始末するなんて……なんだか、違う気がする。
セスは反論しない。
琥珀も何も言わない。
「行こう」
俺は二人に声をかけて、廊下を歩き出した。