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8 私たちにじゃなくて、パパにでしょ

 鍋を両手に抱えつつ居間に戻ると、夕食の準備を進めていたアイリスが、早速俺の腕の中にあるものを目敏く見つけた。


「どうしたの? それ」


 妙に威圧感のある笑みを浮かべながら、小首を傾げて尋ねてくる。


「……なんかシーラが作り過ぎたからって、俺たちに」


 アイリスの目に見えない圧に負けて正直に答えると、


「私たちにじゃなくて、パパにでしょ」


 と彼女に穏やかに訂正された。


「……で、でもシーラは、そんなこと一言も言ってなかったぞ。それにほら、こんなにあるってことは、おそらく二人分だろう、これは」


 そう言って鍋の中身をアイリスに見せると、


「待って。それ、シチュー?」


 とアイリスが眉を顰める。……うん、薄々気付いてたけど、だいぶヤバいなこれ。八方塞がりかもしれん。


「今日の私の料理と被ってる。……どっちから食べるの? パパは」

「……」


 アイリスに聞かれ、俺は咄嗟に答えられなかった。

 心情としてはもちろん、可愛い娘の作ってくれたものを優先したい。


 しかし自分の胃袋の許容量を考えた時、アイリスのものを食べてしまうと、シーラの方はおそらく胃に入らない。

 そうするとシチューは保存が効かないから、食べれずじまいに……なんてことにもなりかねない。

 それはそれで、残り物とはいえせっかく作ってくれた彼女に申し訳ない気持ちがあった。


 俺の一瞬の逡巡の間にアイリスは何を思ったか、


「……いいよ、シーラさんの方、先に食べなよ。せっかく作ってくれたんでしょ、それ」


 と笑顔で言う。なんとなくまずいと思った俺は、


「いや、何より優先すべきは、やっぱりお前の料理だろう。だから先に、そっちを食べる」


 そう宣言し、ひとまずシーラの持って来た鍋を、脇の使っていない椅子に置いた。

 するとアイリスはわざわざその鍋の取手を持ち、テーブルの上へ移動する。


「……そんなに意地張らなくていいよ。愛しのシーラさんが作ったのを、先に食べたいんでしょ? パパは」

「いや、だからお前は、俺たちの関係を誤解して——」

「いいからそっちを先に食べてよ!」


 不意にアイリスのつんざくような声が、部屋に響いた。

 ……いや、気に触るのはなんとなく分かる。ただ、そこまで怒るか?

 正直なところ、俺は何がそこまで彼女を激情へと駆り立てたのか理解できず、困惑していた。


「……お前は何をそんなに怒ってるんだ。いいか、アイリス。俺はお前がいつも夕食を作ってくれていることに、本当に感謝してる。だから、アイリスが作ったものを先に食べる。シーラのはその後で、やっぱり食う。それでいいだろう?」


 ともかく彼女を宥めないことには、話が進まない。そう思って、最初は実現不可能だと考えていた案を俺は出した。

 なに、たったの一食分自分の胃に無理を強いるだけだ。それで娘の機嫌を買えるなら、安いもんさ。

 

「……ごめん、怒鳴ったりしちゃって。私、最近どうかしてる」

「それはもう良い。お前にもそういう時はあるんだろう」


 できるだけ穏やかな声を心がけて言うと、アイリスはそうだね、と感情のこもっていない声で答えてから、向かいの椅子に座る。こうして一応のところ、和解は成立した。


 ただ、アイリスが怒った根本的な原因は、やはり分からないままで。

 俺はその日、彼女と二人暮らしになってからで最も気まずい食事を経験した。


* * *


 アイリスのシチューとシーラのシチュー、どちらも根性で食べ切った後。

 いつもより膨れた腹を撫でさすりながら、俺は自室のベッドに寝転がっていた。


 ……さっきから、全く眠れていない。

 眠りにつきたいと思えば思うほど、目は爛々と冴えわたり、眠気は俺から離れてゆく。


 考えていたのは、娘のこと。彼女は数週間前、俺のことを好きだと告白した。

 あまつさえ、結婚したいというようなことまで言った。

 俺は戸惑った末に、今まで通りの関係でいよう、というようなことを言った。

 彼女はその時、それに納得したかに見えた。


 ただ、今日のアイリスの様子を見る限り。

 どうやら彼女の「愛」とやら——その矢印が自分へ向かっているだけに、自分で言うのはちょっと奇妙に感じるが——は、そう簡単に割り切れるものでもなさそうだ。


——って、よく考えればそんなの当たり前だろう。


 ふと重大な事実に気づき、がばりと上体を起こす。


 そうだ。多分アイリスは、つい最近急に俺のことを好きになったわけではないんだ。

 だって、俺はこの歳になって急にカッコよくなったわけではないし、彼女が最近になって俺に対する態度を急に変えたということもない。


 強いて言えばあの告白以降はお互い顔を合わせるのが気まずくなったが、それはあくまで告白という行為の結果。

 態度を急に変えたというのとは、また別の話だろう。


 すると、あいつはいつから俺のことが好きだったのだろうか。魔法学院に入って、しばらくしてから?

 それとも入学直後から? いや、違う。まさかとは思うが、おそらく……ウェンディが亡くなるよりも前からだ。


 つまり俺は、そんな子に——何年もの間、娘と父という関係を崩さないよう恋心を隠してきた少女に——これからもなお娘でいてくれと、そう言ったのか? そんなの、あまりにも残酷じゃないか。


 ……最悪俺は、ここを出たほうが良いのかもしれない。それがアイリスのためになるなら。

 彼女が俺への想いを断ち切る上で、必要なことなら。


 でも、と同時に思う。俺自身は、それでいいのか?

 今まで長年共に過ごしてきた娘と、こんな形で別れることになっていいのか?

 そもそも俺は、娘からの想いを真剣に受け止め、考えてきたのか?


 ……いや、そんなの考えるまでもない。俺は父で、アイリスは娘。

 父親が娘を性的な意味で好きになるなんて、あってはならないことのはず。たとえそれで、娘が喜んでくれるとしても。


 しかし、いやでも……とその後も俺は自分とアイリスの関係について考え続けた。

 そのうちに眠気が段々と訪れ、延々と同じところを思考がぐるぐる回っていることに気づき始めた頃には、部屋の中に朝日が差し始め、宙を舞う埃を照らしていた。


 その頃になってようやく、俺は深い眠りについた。

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